2014年2月11日に事故にあってから、 多くの方々のお世話になりリハビリを続けて来ました。最初は天井を見上げたままで一生を終わるのかと思いましたが、今やサドル付きの歩行器 で300歩を超える歩行が出来るようになりました。全くこれまでお世話になった皆様方のおかげだと感謝しております。一度は生死の境を 行き来した人間として、このめったにない経験を記録に留めようと思いましたが、慢性的に痺れた首より下の全半身や時折襲ってくる痙性と言 う頸髄損傷特有の突発性痙攣でハガネの入った足が大やけどをしたような痛みを伴い、とてもそのような余裕がないことに気づきました。その あげく、痛みを忘れるためにイヤホンで音楽を聴くだけの生活を長く続けました。ようやく口述筆記で家内に書き留めてもらえるようになった のはおよそ1年以上経った後でした。ここに、お励まし下さった皆様方の記録を残すとともに、過去の経験をできるだけ詳しく書いて皆様にご 報告出来たらと思っています。この記録を残すもう一つ目的は、闘病生活の中で遭遇した多くの困難について知って貰きたいと思ったためで す。介護保険や医療保険、労災の補償等は素人には大変難しく、法律用語などとても理解できないように思いました。この点でも家内はウェブ で調べるなど、色々と助けてくれました。こうしたことを記録に残しておくことが、同じ様な頸髄損傷や難病に苦しむ人たちやその家族にとっ て大変役に立つのではないかと思います。さらに、今日身体障害者がますます援助を受けにくくなっている状況に鑑み、これ以上の法律改悪を 許さないため、身体障害者の皆様と家族、更には医療関係者と介護してくださる方々と共に戦っていきたいと思っています。こうした意味でこ の闘病記録が少しでも役に立つことを願っています。 入院、リハビリ記録2014年2月11日から約6ヶ月間: 京阪電鉄宇治線黄檗駅、上りプラットホームにて4段しかない階段の2段目を踏み外し顔面から打撲。頸髄損傷を患う。近鉄小倉駅近くの京都徳洲会病院に運び込まれ、2週間の 昏睡状態の後、気管切開、人工呼吸器を装着。外傷は約3ヶ月で癒治したが、脊髄C3, C4, C5部位の損傷の故に、上肢、下肢ともに不完全麻痺で要介護度5に認定される。 一時期、胃瘻の施術を受けチューブから栄養補給。 2014年7月末から6ヶ月: 京都駅近くの十条武田リハビリテーションセンター病院に転院。慢性期リハビリを始める。排尿、排便疾患、呼吸器障害が残る。 2015年2月から約4ヶ月間: 埼玉県所沢市の国立リハビリテーションセンター病院に転院。退院後の自宅療養の為の準備をはじめる。 2015年6月から約4ヶ月: 長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢病院に転院。 2015年9月17日: 軽井沢病院の近くの甲山南端にある現在の自宅に戻って、在宅療養、リハビリを始める。 2017年春: 軽井沢町にある團クリニックにて、自費による通所リハビリを開始する。 2017年夏から2019年夏まで: 7回にわたって上田市三才山病院において、ボルツヌス注射とリハビリを組み合わせた治療入院を行う。歩行機能が飛躍的に改善する。 2019年9月: 3週間の間、所沢の国立リハビリテーションセンター病院にてリフレッシュ入院が認められる。 2021年6月: 3週間の間、長野市の県立総合リハビリテーションセンターにて上肢のボトックス注射のため入院が認められる。 種々の事件、問題の発生労災補償の症状固定日について、アフターケアについて 介護保険と医療保険、受けられるリハビリの限界、 訪問マッサージについて 介護保険と労災補償の関係について 排尿管理、泌尿器科の診察の問題 電動車いすの破損事故、レルミニへの買い替えについて 新型コロナウィルスの感染に関して 以下に時間的な流れとしてはあまり正確ではありませんが、日記風にそれぞれの項目についての詳しい記録を残したいと思います。 徳洲会病院に入院中の頃カーン、カーン、カーンと遠くで規則的な音がする。どこか近くで工事でもしているのかしらん。ちょうどコンクリート壁の古い建物を、ク レーンから吊り下げた丸い大きな鉄球でハツっている様な音だ。カーテン越しにだんだんしらけてくる夜のとばりの中で、ぼんやりと考えてい た。あとで知ったが、それは人口呼吸器から管を通じて聞こえてくる自分の心臓の鼓動であった。 2014年2月11日の紀元節の日の朝早く、私は自分が主催している20人あまりの国内研究会に出席すべく京阪宇治線の黄檗駅に向かって いた。上り線の四段しかないプラットフォームを登ろうとした時、いつもは2-3分後に来るはずの2両電車が既に来ていて、10名程並んだ 乗客を運転手が誘導しているのが見えた。その日は月曜日だったが、電車は休日には休日ダイヤで運行されるのをすっかり忘れていたのだ。ま ずい、これに乗り遅れると、中書島で乗り継ぐ予定の出町柳行き特急に乗り遅れる。そうすると9時に始まる研究会の30分前に大学に着いて 研究会参加者の皆さんのために物理教室の建物のドアをアンロックするはずだったのが、15分遅れてしまう。慌てた私は、二段越しにジャン プして階段のステップを踏み込んだとたん、足を滑らせ、そのまま前のめりに倒れて顔面を強打した。何故手をついて支えなかったのか分から ない。肩に懸けたバッグには、その日私が発表予定だったパワーポイントファイルの入ったノートパソコン位いしか入っていなかったの に、、、 お腹を抱えて屈み込んだ私は、目の前が真っ黒になって立ち上がることが出来なかった。すぐさま考えた事は、何ぞこれしき、今の息苦しさを やり過ごせばすぐ電車に乗れる、ということだった。ところが、足が動かない。いつもは朝にしかいない駅員さんが、反対側のホームから駆け つけてくれたのか、「大丈夫ですか?大丈夫ですか?今すぐ救急車を呼びますからね、、、」と言っているのが聞こえた。私は、「足が、足 が、、、」と言い続けていた。その後、気を失ってしまったらしい。 その次に気がついた時は、病院の集中治療室だった。私は必死に自分は何者で、今すぐ何をしなければいけないかを一生懸命 PT の FN さんに説明してしていた。 私が行かなければ、建物の玄関のドアを開けられない事。その為には、研究会の世話人の一人りでもある KN 君に連絡して、大学の同僚の EN さんに鍵を開けて貰うしかない事。ところが KN 君はまだ携帯の取り扱いに慣れておらず、携帯が繋がらない。仕方なく、私のバッグの中に入っている住所録を取り出して貰って、小倉にある自宅の奥様に電話して、そこから本 人になんとか連絡をとって貰う始末だった。同時に看護婦さんが気づかってくれたのが、家族に連絡することだった。当時私は黄檗にある大学 の単身赴任宿舎に住んでいて、一人住まいだった。兵庫県丹波市にある、私の実家の姉に携帯から電話すると、確定申告中で忙しいから今はい けない、という事だった。また、東京に離れて住んでいた私の家内に連絡すると、その日は学校が休みだったので12時には、新幹線で京都に 駆けつけてくれた。姉が車で来てくれたのは、結局その日の夕方だつた。 私はその年の3月末、つまり一ヶ月余りで退職することを予定していた。私の大学はちょうど63歳から65歳定年までの移行期間で、私の時 に65歳になる予定であったが、色々な事情があって1年早く64歳で早期退職することを決めていた。私の大学では、私の様に教授になるこ となく退職していく人は珍しくないが、そういう人が自分の専門分野の研究会を退職前に行うのは大変である。大学院生がいても彼等を労働力 として使うことは許されない。何にから何まで自分でしなければならない。幸いにも、私には親友の KN 君を始め新潟大学の大先輩の SZ さん等、良い共同研究者に恵まれていた。研究会は彼等と、研究室の同じグループに属する助教の EN さんの協力があってこそ開けたのである。 怪我をする前の日、即ち研究会の第一日目の夜、私たちは市内の懇親会でモツ鍋を囲みつつ、2-3年に一度は開催するこの研究会のこれから の予定について話し合った。その時忘れものをした SZ さんのメガネを預かっていた。帰宅して、かなり遅くまで翌日の発表の準備をしていたので、睡眠不足だったのかもしれない。あとで、病院の天井のシミが準備していたパワーポ イントファイルのグラフに見えて仕方がなかったのを覚えている。研究会2日目の当日のうちに、KN 君とEN さん、それに当日だったか定かでないが SZ さん達が駆けつけて下さったのを覚えている。 病院に運びこまれた次の日だったか、春休みだった埼玉大学大学院生の三男が東京から駆けつけて、一週間程汚い私の宿舎に泊まり込んで家内 のいない間私の世話を見てくれたらしい。埼玉大学の教育学部には大学院の博士課程がないので、法政大学の大学院を受験すべくその準備をし ていた、とのことである。その時のこと、スプーンでゼリー状のプリンを食べさせて貰いながら、私は息子に「お父さんの足をまっすぐにし て」と頼んだ。すると彼は、不思議そうに「足は伸びてるよ」と言った。その時だったかあとだったか定かでないが、「そうか、脳が足の曲 がった状態を記憶し続けているのか」と思った。この頃だったか、私は目が全く見えていなかったが、明るい光の中で、看護婦さんに髭を剃っ て貰いながら長らく話していたのを覚えている。 あとで聞いた話だが、私は肺炎を起こしかけて二週間程、薬で眠り続けさせられていたらしい。その後、意識が戻った時、お医者さんの「ここ をこう開いて、、、」という、気管切開の手術の声が聞こえた。その時以来、私は声がでなくなり、「あいうえお表」によるコミュニケーショ ンと、人口呼吸器をつけての死ぬ程苦しいタンの吸引が始まった。食事はこれも、鼻から入れたチューブからゆっくりと一時間半かけて入れる 苦行であった。 冒頭の様な意識が戻ったのは、それから数日後、既に2月の最後の週に入っていた。私の妻は3月末まで東京での学校の勤めがあったので、そ れまでは姉が私のいた宿舎に泊まり込んで付き添ってくれた。私の病室は、看護ステーションのすぐ近くにあてがわれ、酸素濃度が不足すると 人口呼吸器がカン、カン、カンとなって、すぐさま看護婦さんが飛んで来た。私が運びこまれた救急病院は京都徳洲会病院と言って、近鉄京都 線の小倉駅のすぐ近くにあった。小倉駅はそれほど大きな駅ではなく、特急電車は素通りするので、電車が近づくたびにそれが急行列車か特急 列車かはすぐ分った。特急電車はおよそ15分ごとに来るので、私はそれで時間を測っていた。のべつ幕なしに眠っていた私は、暗闇の中でそ れがその日の最終電車か始発か最初は分からなかったが、三月の中頃には白み始めたカーテンの外で何回か通過する特急電車の回数でどれだけ 時間がたったのかを予想出来るまでになった。特に、鼻から入れたチューブを下る流動食の流れの遅さに、まだか、まだかと電車の通過する回 数を数えながら耐えていたのを覚えている。タンが溜まって苦しくなっても、注入中は勿論の事そのあとの15分程度も、食べた物が逆流する からと言って吸引して貰えないのだ。 これも後で聞いた事だが、私は前のめりに倒れて顔面を強打し、額に14針縫う傷を負った。更に、前歯が折れ、右鼻の軟骨を骨折したが、こ れはたいした変形でないのでそのままにしておいたという事であった。道理でしばしば額にそよ風が当たって、夢現の中で天使が天空から舞い 降りて来てそっと撫でた様な感じがした。一方、頸髄の方は手術の必要がないという事だった。頸髄損傷という恐ろしい病気を全く知らなかっ た私は、首にコルセットをして固定してはいたが、「手術の必要がないのならいずれは治るだろう」と勝手に考えていた。主治医の先生は、私 の妻に「全く絶望的です」と言ったそうである。妻は、私が天井を向いたまま一生を過ごすのか、と覚悟したそうである。 その頃の私は天井を向いたまま首は固定されて寝返りもうてず、手も足も痺れていて自分では全く動かすことが出来なかった。手は亀の甲羅の 様に腫れていて、腕は感覚が全く無く、腕がついているのかどうかも分からなかった。一方、足の方は、相変わらず曲がっているかどうかも分 からなかったが、時々襲って来るピクッ、ピクッというピクつきに極度の不快感を覚えていた。あとでそれは、頸髄損傷に特有の痙性というも のである事を知ったが、その時はピクつく事によって麻痺した感覚がだんだん戻って来るのだろうと勝手に考えていた。 首にコルッットをはめていた頃の写真。喉の所には、人工吸器器とタン吸入のためのカニューレ の穴が開いている。 鼻から流動食を注入している間に、10-20分程すれば足の痙攣が始まる。 その不快さに姉に足をさすってくれと頼む。しかし、姉にはその意味が分からない。 後になって、私は次の様な比喩でこの思いを説明した。中学や高校で学んだこの様な実験を思い出してくれ。シャーレーに水を張り、朝顔の汁44 か何かを垂らして色の着いた部分を作る。それに透明なストローを挿しても、色水は上には上がって来ない。そこで、シャーレーを軽く揺すっ てやると色水は全体に広がり、ストローの上に上がって来る。随分と乱暴な話しだが、私はその様な比喩によって回復しつつある足の感覚を理 解して貰えると感じたのである。 この頃、意識の朦朧とした中で、幾つも夢を見た。例えば、ベッドの横に置いてあったコンピューターの画面にDNA配列の様な緑色の長いア ルファベットと数字が次々に現れ、消えていく。私はそれをいつまでも見ていた。また全く理不尽な話しだが、私が京都の老舗の和菓子屋へ 入って行くとそこでは人口呼吸器を売っており、私は一生懸命それを買う交渉をしているのである。それらの殆どが辻褄の合わない訳の分から ない物だったが、人が生死の境を彷徨うとはこういうものであるのか、と思った次第である。天井に、事故に遭う前日プレゼンファイルに貼り 付けていた核子間相互作用の微分断面積のグラフが現れて仕方なかったのも、丁度この頃だった様に思う。 気管切開をして声が出なくなったあとすぐに、姉にタンが出て苦しいのを「あいうえお表」で訴えたのを覚えている。そんな事はありえない が、私は学校か病院の玄関の陽だまりの中にいて、必死に自分の思いを伝えようとしていた。目が見えていたはずなのに、それがどこであるか 分からなかった。言葉が不自由だと、余計な事は出来るだけ省いて、必要最小限にまとめる能力が身につく様である。私は30分程かけて、 やっと次の三つを箇条書きにして伝えると同時に、看護婦さんにも伝えてくれる様頼んだ。「タンが出る→ イキが出来ない→ 死ぬ。」 後で分ったが、タンと呼吸は別経路で、タンが詰まって死ぬ事はまずあり得ない。しかし、タンが詰まった時の苦しさは格別で、そのあとのカ ニューレと喉と鼻からの吸引と合わせて、この時程それまで長年タバコを吸い続けて来たことを後悔した事はなかった。 SP の DH さんが「あいうえお表」の次に教えてくれたのは、「伝の心」という「意思伝達装置」のコンピューターソフトだった。しかし、それは顔に電極を貼りつけて顔をひくつかせる事 によりスイッチを入れる、とても使い物にならない代物だった。一行打つだけで、すっかり疲れ果ててしまった。次に DH さんは、その二年前に開発されたばかりだというスピーチカニューレなるものを紹介してくださつた。それは若い整形の主治医すら知らなかったもので、私に最適の物を特注して 頂いた。普通のカニューレと違って、息を吐く時には弁がしまって声が出る様に工夫されていた。実は私達は、普通のカニューレすらどんな物 か知らなかった。手術して初めて、これが映画「猿の惑星」に出て来るものであると知った。スピーチカニューレの使用は徳洲会病院でも初め てだったらしく、私が付けてもらった時には、病棟の看護婦さんが10名以上集まり、固唾を呑んで見守っていた。主治医に「さあこれで声が 出るはずですが、、、息を吹き出してみて」と言われて、「あいうえお」と初めて機械的な声が出た時、皆さんから安堵の声と共に絶大な拍手 が巻き起こった。その後、慣れるにつれてだんだんと本来の自分の声に戻っていった様である。 カニューレやスピーチカニューレは2週間に一度取り外して新しく付け替えなければならず、その取り外しと取り付けの時は痛くて苦痛だっ た。それでも、「あいうえお表」や「伝の心」に比べると雲泥の差で、コミニュケーションが楽になった。カニューレは三回、スピーチカ ニューレは二回取り替えたのを覚えているので、これらを使っていたのはおよそ二ヶ月半で、5月の初めには人口呼吸器と管を外した事にな る。この管を抜く事についても SP の DH さんと主治医には大きな意見の相違があった。既に述べた様に、私は喫煙習慣のせいで他の人に比べてタンの量が多く、酸素吸入量もなかなか2倍程度には減らなかつた。主治医 は、こんな状態で管は抜けないと主張した。一方、DH さんは、タンが多いのはカニューレという異物が入っているからであって、管を抜けば必ずタンは減ると主張した。実際に抜いてみると DH さんの言う通り、タンの量は半分以下に激減した。この様に、DH さんには色々な点で大変お世話になったが、7月になって我々が転院する前に、高槻か茨木かの新しく出来た徳洲会病院に移って行かれた。 一般に点滴で栄養補給が出来るのは二週間、鼻から管を通して液体を流し込めるのは高々二ヶ月程度だという事らしい。私は5月頃から胃瘻を して流動食を注入した。胃瘻と聞くと家内は一生外せなくなるのではないかと心配した様であるが、お医者さんの「すぐ外せるから」という説 得で納得した様である。結局、7月末に転院する時までお腹からの注入が続いたが、2、3回接続部分が外れて押し出した流動食が天井にまで 飛び出しもした。転院の前日になって胃瘻の管がまだ外されていない事に気づき、すぐ取り外す始末であった。一日、二日で穴が塞がり、一週 間もすれば穴は完成に塞がるという事であった。 ある時、熟練看護婦の UH さんが尿が濁っている事に気付いた。すぐに高い熱が出始めて、尿路感染に気づいて慌てて抗生物質剤を飲んだ。素早い処置のお陰で、三日後には完全に熱が引いた。それ以来6 年間一度も尿路感染は起こしていない。改めて、熟練看護婦の鋭い観察力に感心した次第であった。 リハビリ室での本格的なリハビリが始まる前に、尿の管は取り外してしまった。自尿は相変わらず出なかったが、4時間ごと一日6回の導尿で 看護婦さんにお世話になるしかなかった。排便の方は、癖になるからという理由で浣腸をしてもらえなかった。摘便と言って看護婦さんに搔き 出して貰うのだが、その為には横向きにならなければならない。しかし、右肩も左肩も極度に痛かった。摘便の回数13-4回を3回、その間 数を数えながらじっと耐え忍んだ。 話は多少前後するが、京都でソメイヨシノが満開となる4月始めの入学式の頃、PT の FN さんが病院で最良の車椅子に乗せて入院して初めて建物の外に連れ出してくれた。首はコルセットを付けたままだったし、ベッドからの移乗は大変で、総勢6人でエイやっと移し てもらう始末だった。美しい満開の桜を見たのも束の間、小雨が降りだしたので慌てて屋内に入ったが、この時が2月11日以降初めて外の空 気を吸った時だった。FN さんは私担当の PT で集中治療室にいる時から、色々と話を聞いて貰っていた。入院してから、土日を除いて殆ど毎日のようにリハビリが続いていたが、初めてリハビリ室に移って起立台に寝かされ た時、一気に45度まで上げて見る見るうちに血の気がひいて真っ青になり、血圧が40位にまで低下した。次の日から、毎日5度刻みで徐々 に上げていって2週間以上経ったあと、やっと65度位までに到達した。リハビリ室からは窓越しに、近鉄電車がすぐ近くを走り抜けるのがよ く見えた。 (左) 2回目の病院の建物の外の空気。PTのFNさんと。 (右) リハビリ室の様子。 私を担当してくれた OT の先生は NY 先生で、週3-4回血圧計を携えて現れては、 「今いいですか?」と言って入って来て、丹念に私の指を一本一本折っては、 汗をブルブル掻きながら腕の屈伸を繰り返して下さった。 回復した時に、指や腕が固まってしまわない様に、という事であった。今でも指は動かないが、 NY 先生の指導のもとに家内が屈伸を繰り返し続けてくれたお陰で、現在左腕で食べ、 この様にiPadを打てる様になっていることを思い、本当に感謝している。 家内は4月から東京都の臨時教員を辞め、月曜から金曜まで新幹線で京都まで来ては、病室の個室に簡易ベッドを借りて泊まり込んでくれる様 になっていた。人口呼吸器が取れたので、病室は看護ステーションから少し離れた場所に移り、個室料金を払って簡易ベッドを置いて頂いたの である。週末は既に高齢だった家内の母の介護があるので東京にとって帰り、替わりに姉が丹波から来て相変わらず大学から貸して頂いていた 職員宿舎に寝泊まりして看病に当ってくれた。 この間、大学関係の事に関しては、物理教室理論秘書の YK さんには大変お世話になった。特に、事故に遭ったのが祝日であったのにもかかわらず通勤中の労働災害の認定が受けられたのは、YK さんの現場からの貴重な証言があったお陰である。労災の手続きには、大学の本部事務からの申請が不可欠であるが、ウェブからの情報をもとに不慣れな事務官を指導して完璧な 処理をして下さった事にはお礼のしようがない。また、最終年度だった科研費の処理に、前例の無い事例に戸惑う学審と連絡を取り適切な書類 を整えて下さったのには本当に頭が下がる思いがする。YK さんはまた、家内の為にも必要な書類を整え、懇切丁寧に素人には全く分かりにくい労災補償の仕組みを説明してくれた。これも後で知った事だが、これらの難解な法律用語を素 人が理解するのは無理で、普通は弁護士に手続きを依頼するという事であった。そうすると20% 程度手数料を取られる。YK さんのお陰で今日に至るまで、家内は全ての手続きを自分でやってくれている。聞くところによると、YK さんもまた、昔大変な大病で入院していたことがあるとの事で、何遍も見舞いに来ては常に適切な助言をしてくださった。 入院中は、多くの方が見舞いに訪れて来て下さった。研究会出席の皆さんや研究室の同僚達、学部時代の理学部 S4 の友達達、それに田舎の親友や従兄弟。とりわけ、理学部物理学教室大学院のスタッフの皆様からは多大なお見舞金と励ましの言葉を頂いた。YK さんはそれらを取り纏め、またワードファイルにして送って下さった。ここに皆様方に感謝するとともに、名簿と励ましの言葉を資料の「支援 者記録」に残しておきたい。 十条武田リハビリテーション病院に入院中の頃その年の夏、梅雨があけてカッと照らす真っ赤な太陽に厳しい京都の夏が始まる頃、私は近鉄小倉駅のすぐ近くにある徳洲会病院から京都駅近 くの十条武田リハビリテーション病院に移った。気管切開のカニューレをはじめ管類は全て外れていたが、手足は殆ど動かず、ストレッチャー に乗っての民間介護車両による移動だった。昼前の既に暑い中、病院前で親しくして頂いていた看護婦の IK さんが「近くだから、また会いに行くからね」と言って見送ってくれた。あれから、一回も会っていないが、、、堀川通りの南の最近開通した高速道路を10-20分走って京都 駅の南西にある病院に到着した。病院の中は涼しかった。京都には武田病院がいくつかあって入院した病院はその一つであった。これまでの病 院には約6ヶ月いたが、それまでにもいくつもの問題にぶち当たった。 まず急性期の病院は3ヶ月が限界であってそれ以上いようとすると早く自宅に帰るようにとせかされる。天井を向いたままでどうして自宅に帰 れるのかと聞くと「皆様そしていらっしゃいます」と言うことであった。私は色々と事情があって京都には住む家がなかったので、帰るとすれ ば兵庫県の田舎に帰るかまた別の借家を探すしかなかったが、そういう事は一切考慮されなかった。家内は東京に住んでいたので東京の病院に 移ることも考えたが、ヘリコプターで輸送すると300万円かかると言うことであった。病院から紹介されたのはほとんど京都近辺の病院で、 東京の病院を紹介してもらうことは難しかった。しかも、慢性期のリハビリテーションをやってくれる病院となるとなかなか見つからなかっ た。十条武田リハビリテーション病院はリハビリをやってくれる数少ない病院の1つだった。京大病院にもあたってみたが、「ここに来てもリ ハビリが増える事はない」と言うことであった。家内は必死で少しでもリハビリをやってくれるところを探そうとしてくれた。 新しい病院に来てみると、主治医の DN 先生は大変理解のある先生であった。PTとOT それぞれ週3-4回のリハビリをフルにやって下さった。PT の SG さんのリハビリは独特のもので、じっと手を当てて本人による機能回復を目指そうと言うものであった 。スライディングボードによるベッドから車いすへの移乗訓練を始めたのもこの頃である。支えられてベッドの端に腰掛けるのがやっとであったが、見えるのはいつも床ばかりで まっすぐ前を見ることすらできなかった。OT のTG さんは滋賀県から通っている人で、時々車椅子で病院の外に連れ出してくれた。その時病院の前で撮った写真があったが、家内のスマホが変わってしまって見当たらない。時々リ ハビリ室に行って、病院に1台しかないバランサーと言う装具を左手にはめて、「雑巾掛け」と言う手を前後に動かして机を拭くような動作の 訓練を行った。これが後日自分の左手で食事を食べる基本的なスタイルになるとは、当時は想像だにしなかった。 妻は相変わらず週日は東京から新幹線で来ては個室の病室に簡易ベッドを借りて泊りこみ、週末は年取った母の介護の為に東京に帰る日々で あった。狭い病室であったが、1日2万円と言う価格のせいかあまり利用する人がいなくて、空いている間は半額の1万円でいいと言うことで 結局6ヶ月の間住まわせてもらった。週末は、姉が大学の公務員宿舎に寝泊まりしてきてくれていたがそのうち宿舎が借りられなくなると、我 がままな私に愛想を尽かして「あなたの面倒は見切れない」と言って田舎に帰ってしまった。自分ではすぐに良くなって引っ越しの後始末をす るつもりであったが、6ヶ月を過ぎても立ち上がる事はもちろんベッドから起き上がることもできなくてとてもそのような状況ではなかった。 そのため宿舎を始め大学の研究室を引き払う時にも、大変多くの方にご迷惑をかけた。特に宿舎はタバコのヤニが染み着いていたため姉は大変 苦労した。何遍も自分でクリーニングした上に、何回も管理人のチェックを受けてやっとオーケーが出たという事であった。宿舎のコンピュー ターや本棚の本を処分するにも大変で、姉の娘の姪っ子が来てくれて、さらに私の息子が東京から来てくれてやっと箱詰めしてトラックに乗せ て田舎に持って帰ってくれた。大学の研究室をひき払うにも、助教の EN さんと理論秘書室の YT さんが音頭をとって、多くの大学院生の方が箱詰めを手伝ってくださった。全部で30ないし40箱になったそれを、本の元の位置を確認できるように写メを撮って持って来て下 さると同時に田舎に送り届けてくださったのは大変ありがたかった。また大学の研究費で購入した計算用のLinuxマシンが何台かあった が、それらを適切に処分してくださったのも研究室のコンピューター担当の大学院生だった。科学研究費で買ったコンピューターは個人のもの ではなく大学の所属になっているので、それを他の人に管理していただくのは大変な仕事であった。ただ1つその年の前の夏に買ったソニーの VAIOはデスクトップではなくラップトップ型パソコンであったので、自宅に持って帰ることが許され、その後5年にわたって使わせていた だいた。 その年の夏は初めて京都の祇園祭が二回に分けて行われた年で、すぐに厳しい暑さが始まっていた。家内は京都にいるときのために自転車を 買って、その自転車で暑いなか西大路の角にあるAEONへの買い物や食料品の調達に出かけていった。何を食べても良いと言う事だったの で、家内はお好み焼きやステーキのドンで肉を調達して来て食べさせてくれたりもした。近くの東寺で毎月24日に開かれる「弘法さん」に出 かけて行って、素敵な陶器や編み物を手に入れたりするのも楽しみだった。 当初、「伝の心」はWindows7のversionしかなくそれをVAIOに入れる事はできなかったが、この頃 Windows8 version が出来て宇治の取り扱い専門店から業者が病院にインストールのために来てくださった。しかしボタンの操作が出来なくて色々工夫してくださったが、結局のところ使い物になる ものではなかった。その頃になってやっとWindows8の画面へのタッチが反応するようになって、久しぶりにウェブページを見ることが できるようになった。息子の勧めでWiMAXの無線ルーターを買えば、京都駅のすぐ近くであったので電波が非常に快適に入ってきた。そこ で脊髄損傷の検索をかけてみると、小樽でこの病気を患ってリハビリテーションに長年取り組んでいる森さんという方のホームページに行き当 たった。彼女は50歳近くの人であったが近所の住民である右近さんという方が、全てを刻銘に記録に残していて、一日6時間のリハビリを続 け、8年目にして初めて「立った! ついに歩いた」というホームページの記録に衝撃を受けた。私が一生治ることのないこの病気であるということを知ったのは、この時が初めてであった。それからだんだん色々な 情報が得られるようになって来た。 この頃たまたま見たテレビの番組で私が大きな感動を受けたものに、東田直樹さんのドキュメンタリー番組がある。「自閉症の僕が飛び跳ねる 理由」という彼が書いた本に基づいてNHKが取材した番組で、私はその土曜日の午後、左を向いて痛む左肩のことも忘れて見入っていた。そ こには普通は心理学者でも入り込めない自閉症の人の心の状態が丹念に綴られていた。自分の中では記憶があちこちに飛んで1つの線の上で順 番に浮かぶわけではないこと、飛び跳ねるとなぜか解放された気持ちになって気分が良いこと等、教えられた。家内が東京から戻ってくると、 その事を伝えて早速彼の本をAmazonで注文した。番組では日本に留学していた自閉症の子供を持つアイルランドの作家が、それまで自分 の息子が何故このような行動とるのか自分には理解できなかったが、東田直樹さんがそれを明らかにしてくれたという大変感動的な話も含まれ ていた。彼は日本でこの本に出会って、それを英語に翻訳した。家内は英語の本も注文して勉強になるからと英語で読んでいた。1-2年後 に、この番組を作ったプロデューサーが闘病生活の中でこの時の思い出を語るドキュメンタリー番組の第二弾が放送された。 大学の宿舎を引き払った私には住所がなく、東京の家内の借家に住所変更した。身障者手帳の発行は住民票のある区役所の管轄であるので、東 京の杉並区は京都の区役所に依頼して事情聴取の人を送ってくれた。私は第一種第一級の身障者手帳をあてがわれ、それにより1割の負担で今 でも重宝している MyTiltと言う会社の、手動だが decline と tilt の双方が出来る車いすを買って頂いた。その頃には足が多少動き始めたので「足こぎ車椅子」と言うもので訓練をすることを考えたが、真ん中に支柱があってそこをまたいで乗る ことができず購入を諦めた。指は相変わらず全く動かなかったが、左腕が顎に届き始め少しかゆいところをかけたのはありがたかった。しかし 右腕は自分では10cmと上がらなかった。尿は自尿が出ず一日6回の導尿だったが、少しは尿意があったので、妻と看護婦さんがパッドに出 た尿量を毎回測って記録を付け、20cc、50cc と少しずつ増えていった。しかし、最大150ccを超える事はなかった。たくさん出たように思っても、その後導尿をしてみると最低100cc以上は残っていた。この事情は 今日まで続いている。大便の方は、この病院では浣腸をするのが普通のようで、最初2日排便を我慢して苦しんだことがあったがその後は毎日 ベッド上での浣腸をして頂いた。いつも30分位以内には出たのは幸いであった。 京都武田病院は積極的に中国人労働者を受け入れる努力をしているらしく、十条武田リハビリテーション病院にも優秀な中国人の看護婦の方と 准看護婦を目指している中国の出身の介護師の方が1人おられた。私たちは昔家族で3ヶ月北京に滞在したことがあって、子供達が肺炎にか かって軍事病院に入院した時も大変よくして下さったことを思い出して懐かしく思った。家内はしきりに片言の中国語で話しかけて、中国語の 勉強をしていた。この病院は、救急病院と違ってかなりのんびりしており、私たちもゆったりとした気持ちで6ヶ月を過ごさせて頂いた。 手が動かなくて苦労するのは、痒いところに手が届かない事の他にも幾つかあって、いつも問題になるのはナースコールの件である。ボタンに 手が届かないだけでなく、ボタンを押しても反応しないというのは普通で、姉や看護婦さんが色々と工夫してくれた。夜中にナースコールに手 が届かなくて苦しんだのも二度、三度ではない。この辺の事情は今日に至るまで継続していて、なかなか一般の人には理解していただけない。 この頃、家内がCDプレーヤーを持ってきてくれて個室であることをいいことにいつも音楽を聴いていた。高田みずえや岩崎宏美、瀬口侑希の 演歌がお気に入りであった。音楽を聴いている間は、手足のしびれや足のピクつきを多少とも忘れることができた。看護婦さんに尿やタンを とってもらうのが嫌で、家内が買い物や食事に出かける時は「40分以内に帰ってきてくれ」と随分と無理を言っていたのを覚えている。それ 以外に病室にいる時は、洗濯物を処理する時を除いて、家内はずっと私の足をさすり続けてくれていた。 国立障害者リハビリテーションセンター病院に入院中の頃4翌年2015年1月末、新幹線と民間介護輸送車両を乗り継いで所沢の国立障害者リハビリテーションセンター病院(国立リハセン)に転 院した。十条武田リハビリテーション病院は京都駅の近くにあったが、新大阪発東京行のN700系列新幹線車輌の特別室の個室に乗るために は、京都駅での停車時間が短すぎるということで新大阪駅に移送されての移動であった。新幹線の中では1時間おきに約100cc 出る尿を家内がとってくれた。東京駅では駅員さんの上役と思われる方2人が、東京駅の売店に荷物を出荷する倉庫の中を誘導して、また別の介護車両の待ち受ける出口まで案内 してくださった。介護車両の上の窓からは首都高速を走る車両の様子が、ストレッチャーの上からでもよく見えた。昼ごろには国立障害者リハ ビリテーションセンター病院に到着した。 病院は所沢航空公園と防衛医大病院の近くの広大な敷地内にあった。通りを隔てた東京電力の建物には巨大なパラボラアンテナがある方向を向 いていた。病院の建物は40数年ぶりに新しくなったとの事で、廊下は広く車椅子が4台横に並んでもまだスペースがあるほどであった。個室 を1日1万円で借りていたが、家内はそこになにがしかのお金を払って簡易ベッドを入れていただいて寝泊まりしていた。週末は家内の母の介 護で相変わらず東京の杉並区の借家の間を車で行き来していた。病室は十条武田リハビリテーション病院の個室と比較して二倍以上の広さで、 端にはクローゼット式の小さなキッチネットが付いていた。そこで、材料を買ってくると簡単な食事は作ることができた。家内の母は多少の痴 呆が入っていたが、車椅子に乗って移動していた。しかしこの2-3週間後に倒れていよいよ入院と言うことになった。家内は姉妹3人で交互 に介護をしていたが、東京まで2時間近くかかる車での移動を毎週繰り返して、結構大変なことだったと思う。さらに、1ヵ月ほどして今度は 東村山市に住む私の兄が倒れて、透析が必要となり近くの病院に入院することになった。兄は既に10年ほど前に脳溢血で倒れて、言葉と日常 の生活が不自由であったが、子供たちが既に大きくなっていたので、かろうじて兄嫁が介護によって支えていた。 春の暖かい日、介護車両を手配して東村山市の近くにある病院に入院している兄の見舞いに出かけた。所沢の国立リハセンからの距離はそれほ ど遠くなく、車で約30分程度であったと思う。所沢の市内を流れる小川の両側には桜が美しく咲いていた。私より3歳上で兄より3歳年下の 姉が兵庫県丹波の田舎から兄の見舞いに来ると言うので、妻がこれが兄弟3人が久しぶりに会える良いチャンスだと言って手配してくれたので ある。御殿場にいた姉の息子が運転して姉と田舎の姉の娘も連れて来てくれていた。病院につくと受付は人でごった返しており、車椅子で通る のもやっとで人波をかき分けて通る有様であった。電車の駅のすぐ近くにある小さな病院で、所沢の国立リハセンに入院したばかりの私には東 京の病院はこのようなものかと驚くばかりだった。狭いエレベーターで2階に上ると物置のようなナースステーションがあって、狭い廊下の奥 にある狭い部屋に兄は入院していた。兄は点滴の針を通す場所がもうほとんど残っておらず首から腕にかけて人工血管を通しており、全く痛々 しい限りであった。それでも元気ではあるようで、3兄弟の写真を撮った後2階のエレベーターの所まで見送ってくれた。この後、11月に兄 は病院に行くためにアパートの階段を踏み外して転倒し帰らぬ人となった。奇しくもこれが最後の出会いとなった。これはその時撮った写真で ある。 京都からこの病院への転院に関しても、色々と多くの問題があった。十条武田リハビリテーション病院には約6ヶ月いたが、それは慢性期リ ハビリの病院としては非常に長い期間で通常は3ヶ月と言うことであった。しかもリハビリの単位数は週1-2回程度でそれぞれ20分のリハ ビリが原則であったが、主治医のDN先生の取り計らいで、徳洲会病院の時と同じく週4-5回のPTとOTのリハビリを受けることができ た。しかし3ヶ月を待つことなくしきりに別の病院に移ることを求められ、そのほとんどが京都近辺か近くの府県の病院であった。関東の病院 の情報はほとんど得られなかった。家内は東京の教会員の情報やいろいろな手段を使って、関東の病院に転院できる可能性を探ってくれた。特 に、軽井沢に夏だけ使っている家内の母の別荘があったので、将来的には冬も住めるようにリフォームして永住するという計画を立ててくれ た。別荘と言っても、それは軽井沢病院のすぐ後の甲山の南端にある沼地に立った小さな建物で、家内の母がその両親から譲り受けた小さな土 地の一画にあった。私は1986年に京都に帰ってきてから、子供が小さかったので暑い京都の夏を避けて家内と子供達を7月末から9月の 1-2週目まで送り届けるために、ほとんど10年以上の間車で京都と軽井沢の間を行き来する生活を送っていた。軽井沢の夏の涼しい気候は 暑さに弱い私にも魅力的であったので、今後軽井沢に住むという家内の計画は、兵庫県の田舎に自分の居場所を見出せない私にとってはありが たいものであった。家内は軽井沢病院と国立障害者リハセンと交渉して、軽井沢病院が将来入院した3ヶ月後に自宅に帰ると言う条件をもとに 受け入れてくれるという約束を取り付け、それを条件として所沢の国立リハセンも3ヶ月の入院を許してくれると言うことであった。 今では多くの病院で無線Wi-Fiを来訪者にも解放するのが普通になってきているが、当時は業務用に不可欠なWi-Fiを入院患者に使わ すなんてとんでもないという雰囲気であった。京都から持ってきたWiMAXルーターは電波が入らず大変苦労した。ウェブにはそんな場合の 対策が色々と出ていた。家内に近くのスーパーから調理用のボールを買ってきてもらってそこにルーターをパラボラアンテナのようにセットし て窓の外に置き、そこから延々とケーブルを引いてVaioに繋いでなんとかこの問題を解決しようとした。しかし結局うまくいかなくて、テ ザーリングのインターネット共有を使うべく、もう一度介護車両を依頼して所沢の街にiPhone 6Plusを買いに出かけた。ここで学んだ事は、WiMAXは5ギガヘルツの電波を使っているのでコンクリートの壁がブロックになっていて調子が悪い、それに対して iPhoneはふつう750メガヘルツなので電波が安定しているということであつた。私は古い人間でパソコン派だったのでiPhone、 iPadには抵抗があったが、これ以後iOSに大変お世話になる事になった。 まだ京都にいた時住所を家内の東京の借家に移したので、杉並区の福祉事務所から身体障害者1級の指定を受け、それをもとにMyTiltと いう会社の車椅子の支給を受けた。普通の車椅子では背もたれが垂直でヘッドレストも無く、それでは15分と座って居れなかった。所沢の国 立リハセンは自宅に帰る為の準備期間という位置付けだったので、リハビリは全てそれに向けて行われた。所沢に着いた最初の日、OTのIT 先生が私の左腕を何回か折り曲げて即座に「これならバランサーで食べられますね」と言われた。京都の十条武田病院でOTの訓練でバラン サーなる物を見た事はあったが、それは訓練のためでそれを使って毎日の食事をするとは思ってもみなかった。それに十条武田病院では壊れか けたバランサーが一台あるだけで、それを皆が奪い合う様にして使っていた。ここでは、入院患者一人ひとりに一台バランサーが当てがわれ時 間のかかる設定を毎回する必要がなかった。これは電動車椅子についても同様で、PTのIW先生が「藤原さんに最適の電動車椅子を見つけて きますよ」と言ってティルト(tilt)とデクライン(decline)の双方が出来る大きな電動車椅子を当てがってくださってそれを退 院の日まで使わせて頂いた。 IT先生はコンピューターは自作するほどのマニアックで、写真が趣味、ドライブで旅行するのが好きという大変器用な方だった。旋盤を見事 に操って今でも使っているパソコン台や、タッチパッドを操る時指がくっついてしまわないように分離するプラスティックの手の装具や、その 後重宝した日常生活に必要なものを色々と作って下さった。特にVaioのスクリーンキーボードを設定して固定キー機能を持たせたり、ロジ クールのタッチパッドと入力ペンを使ってbluetoothでノートパソコンを操作する方法を色々と教えて頂いた。それまで私はタッチパ ネル方式のWindows8の事はほとんど知らなかったので、Vaio やiPhoneを使いこなせるようになったのは全くIT先生のおかげである。その後2019年の9月、もう一度国立リハセンにブラッシュアップ入院を許されたが、その時に は既に私のパソコンの扱いには充分進歩が見られ、IT先生の助言を頂いて自宅でのホームサーバーの立ち上げをするという大きな目的があっ た。当時既に軽井沢の自宅の改築を計画していたので、IT先生にはベッドルームでの流しの配置やトイレ、バスルームの設計、改築に関して も色々と助言をして頂いた。 >(左)バランサー用の手の装具 (右)IT先生が作ってくれたタッチパネル用の手の装具 PTのIW先生は坂本龍馬を思わせる高知出身のいごっそうで、国立リハセンの中心的人物であった。中国の紫禁城の隣に中国指導部が政治を司る場所があるが、その正確な場所はセキュリティー上極秘となっている。外国人はもちろんのこと中国人でも普通の人は決して入ることのできない場所である。中国の指導者の1人に脊髄損傷を患った師弟を持った人がいて、IW先生はその人に招かれてその場所に入ったということである。また後で聞いた話だが、国立リハセンには理学療法士番号が1桁の人がザラにいて凄いという事だが、IW先生はそのような1人だったに違いない。国立リハセンには大学を卒業してから入る理学療法士になるための学校が附置されていたが、IW先生はそこでも教えておられた。彼はまたあちこちの業者と協力して車椅子のマットレスの開発をしたりして、この分野の発展のために大変努力されているご様子であった。先生のリハビリは前半訓練台上でのマッサージのあと、坐位をとったり、ポポ(歩歩)という免荷型歩行器を使っての歩行訓練がメインであった。歩行と言っても、40-50キロ釣り上げて歩いているので、ほとんど足が引きずられて歩くような有様であった。 電動車椅子をあてがわれた私は嬉しくて国立リハセンの広い廊下を全速力で走り回っていた。また廊下の大きい窓から眼下に広がる大きな関東平野は、私にこれから関東地方に住むんだという一抹の不安を覚えさせた。 廊下の端に電動車椅子を止めて、ティルト機能を最大限に利用して寝そべっていた。 5そのまま居眠りに落ちることもあった。時々、ABさんが廊下を歩く訓練をしておられるのに出くわした。ABさんは生命を 救う為にやむなく両腕を肩から切り取ってしまわれた50代後半のご婦人で、東京都の東の方でご主人と共に居酒屋をやっておられたが、今は 息子さん達がお店を助けてくれるという事であった。いつも明るくて、厳しいリハビリに励んでおられた。その姿に、いつも励まされたのを覚 えている。ある日私は電動車椅子を駆使して妻と一緒に航空公園のそばにある理髪店に出かけて行ったが、帰る途中スピードを出し過ぎて道路 脇の生垣の中に突っ込んでしまった。高々5cmくらいの低いコンクリート枠であったが、家内1人ではとても持ち上げることができなくて、 たまたま通行していた男の人が二人で歩道に引き上げて下さった。ちょうど、防衛医大病院の前であった。それ以来、電動車椅子のスピードに は充分気をつけて運転する様に心掛けている。 所沢に来て、私には初めて私と同じ脊髄損傷を患う良い友達が二人出来た。YKさんとNKさんである。私は個室にいたが、食事時には彼らの 部屋に行ってバランサーをセットして頂き、看護婦さんが1人で患者全員の食事の面倒を見ていた。最初はお互いに気遣って、どうして病気に なったかとかそういう話題は避けていたが、だんだん打ち解けてくると何でも気楽に話せるようになった。私が最初に気がついたのは、関東の 人は自分のことを決して僕とは言わないで私と言うことであった。京都では、特に大学の先生方は私と言うのは何か気恥ずかしくて、自分のこ とを僕と言うのが普通で、それは必ずしも小児用語ではない。食事が運ばれてくるまでは、我々は穏やかに談笑していたが、食事が始まると途 端に寡黙になる。我々にとっては、食事する事は1つの大きな仕事である。そこで食事が終わった後には、本当にご苦労様と言う言葉が自然に 出てくる。YKさんは大学院時代に海の浅瀬に突っ込んで首の神経の損傷を受けたという事で、東京脊損連絡会副会長をしておられた。発症 後、奨学金を得てカナダのトロント大学の大学院に1年間単身留学をされた凄い人で、最近ロンドンとパリを家族と旅行されてその体験記を脊 損連絡会の機関紙に公開されていた。彼は食事の後、しばしば私の部屋に来て親しく話をして下さった。私は彼から、脊髄損傷を患っても頑 張って生きている多くの人の話を聞くことができた。NKさんは、自転車に乗っていて車にはねられ10メートルも飛ばされて脊髄を損傷した というまだ若い方で、 小さなお子様がおられるとのことであった。奥様がしばしば見舞いに来ておられた。彼は指が自由に動くようで、スマートフォンの操作やパソ コンのキーボードの入力には困っておられない様子だった。私はYKさんに、この病気独特の痙性は何年位い経ったら落ち着くかとお聞きし た。彼はしばらくの間考えた後、数年位と言われたが、私の場合は発症してからもう6年も経つが相変わらず痙性が強くて苦しんでいる。お二 人とは、メールや電話を通じて今でも親交が続いているが、所沢を去る時にした「いつか将来、軽井沢で同窓会をやろう」という約束はまだ果 たされていない。 この頃私は精神的にかなり参っていて、精神科医であるカウンセリングの先生に色々と話を聞いて頂いた。その中で、今後軽井沢に行って移住 するという話になり、何故軽井沢かということが問題になった。これは他の人にも言われた事だが、今日福祉事業の水準が全国平均を上回って いるのは東京都と横浜市だけで、それ以外は全て標準以下だという事であった。特に「軽井沢町は人口2万人程度だから、藤原さんは多分軽井 沢町でただ一人の脊髄損傷の身体障害者ですよ」と言われた。実際、今のところ軽井沢町では脊髄損傷の人に合ったことはない。所沢には4ヵ 月の間居て、7月2日に再びストレッチャーに乗って民間輸送会社の車で軽井沢病院に転院した。その前に気管切開の穴を塞ぐ手術をする予定 であったが、直前に執刀医が失踪して手術は取り止めになった。これは入浴担当の介護士さんが、喉に小さな穴が開いていてそこから空気の泡 が出ているのを発見して下さって、気管切開の穴が完全には塞がっていなかった事が明らかになったためである。「急を要する場合は他の病院 を紹介するが、藤原さんの場合はそうでもないので、転院先の病院でやってもらって下さい」という事であった。 軽井沢病院に入院中の頃2015 年 6 月初め頃、私は所沢の国立リハビリテーションセンター病院を出て、現在住んでいる自宅のすぐ近くの軽井沢病院に入院した。民間輸送車両を使って、看護婦 1 人を乗せての移動であった。家内は、当時乗っていた義母の車ですぐ後について走ってきた。朝早く出て関越自動車道と上信越自動車道を乗り継いで、碓氷峠でのインターチェンジで降り降りると、そこからしばらく上ったあと軽井沢に向けて数百メートル降りる感じであった。プリンス通りのゴルフ場を横目に見ながら、私はストレッチャーの上で樹々の生い茂った軽井沢の風景をぼんやりと眺めていた。約 2 時間半の行程であった。昼前について、早速種々の検査が始まった。軽井沢病院で 3〜4 ヶ月入院してその後改築した自宅に戻ると言う条件をつけて、やっと認められた入院であった。国立リハセンで OT の IT 先生に相談に乗っていただいて始めた義母の母の別荘の改築は始まったばかりで、7 月下旬から 8 月下旬まで軽井沢では騒音工事が許されていないと言う事情があり、9 月初めには工事が終わるようにとの予想での入院であった。その間、家内は泊まるところがないので、病院の個室を借りて付き添い用の簡易ベッドをお借りしての寝泊まりであった。この間、入院していた義母の容体はおもわしくなく、退院の頃の 9 月初めが限界との医者の言葉で何とか退院を遅らせてもらおうと思ったが、それも許されず結果的にショートステイの形でその後 2 週間病院に置いていただいて、9 月 17 日頃退院した。その時思ったが、義母は 91 歳でずいぶん老衰していたが病院の医師が詳しく診断して下さり、数日単位で余命何日と予想できる近代医学の凄さに驚いた。 軽井沢病院での主治医は医院長で整形外科医の MK 先生で 50 後半ぐらいの年齢の冷徹で落ち着いた感じの先生であった。木曜日か金曜日の回診の折には、これまでの病院の様に看護師や地域連携センターの職員、理学療法士 (PT) 等の総数十数名の行列であった。ある時、家内や私がなるべくリハビリを増やして歩ける様になりたいと言った時、すぐさまはっきりと「歩けるようにはなれません」と言われた。私は、「先生は科学者だから科学的事実としてその様におっしゃるが、患者としては何とか歩けるようになりたい」と言った。今から考えると、ずいぶん生意気な事を言ったと思うが、それは患者としての率直な思いであった。入院後の検査はレントゲン検診や血液検査、尿検査や心電図など一通りの検査以外にCT スキャンの検査をしたかどうか定かではないが、もしかしたら国立リハセンでの検査と間違えているかもしれない。退院する前に肺活量の検査をしたが、自分ではかなり回復したように思えたので「もうほとんど普通でしょう」と言ったら「いや、普通の人の半分以下です」と言われてショックを受けたのを覚えている。私は呼吸器機能を司る C2 部所の脊髄損傷ではないが C4, C5 の損傷でも呼吸器障害が残ると言われている。今でも痰がスッキリ出ないのは肺活量が普通の人の 40 %程度である事が原因のようである。 入院して初めてした事は、所沢の国立リハセンで実現しなかった気管支切開の後始末の手術ではあった。最初は 30 分位の手術だと言うことであったが、副院長の NK 先生は 1 時間半以上かけて非常に丁寧な手術を施してくださった。局所麻酔をかけての手術であったが、その間電気メスを使っての肉を焼く匂いがして、人間の肉も結局はステーキの肉と同じかと思った次第であった。この手術が功を奏して、その後気管支切開の後の喉の不快感も徐々に取れていったし、湯船につかったときの喉からぶくぶくと空気が漏れる心配もなくなった。しかしながら、軽井沢病院での入浴は今はどうかわからないが当時はストレッチャーに乗ったままカマボコ型のシャワー室に入るもので、何か手を突っ込んで動物実験をやっているような感じだった。喉の違和感は今ではほとんどなくなったが、喉に引っかかる服の感触が気になって、座った時には必ず背中の襟を引き上げて前を下げてもらう習慣が今も続いている。 病院でのリハビリは、当初 40 分の PT だけであったが、泌尿器科の SN 先生が自己導尿のために指を動かす訓練をした方が良いと言うことで作業療法士 ( OT ) のリハビリもまもなく始まった。 PT のリハビリ室は所沢のリハセンに比べるとはるかに狭く、多くの機器やたくさんの患者でごった返していたが、担当の YK さんはしばらく体をほぐした後最後に前から抱えて足の屈伸運動を根気よく行ってくださった。この頃はまだ足の突っ張る力は弱く、痙性を利用しても足をまっすぐ伸ばすところまでたどりつかなかった。この YK さんは、その後軽井沢社協でお世話になった介護士の YK さんのお兄さんで、 YK 兄弟にはその後も大いにお世話になることになった。OT 室は 1 階の眼科の隣にあり、スペースとしては広かったが、2-3人の OT しかいないということであった。OT の MY さんは、何遍も腕の屈伸を続け指の動きが固まらないように手首と指を根気よく動かし続けてくださった。しかし、その後も指の動きが回復して自己導尿ができるという風には決してならなかった。 車椅子は、最初は京都で身障者手帳で買っていただいた手押しの車椅子だったが、しばらくして病院に出入りしている松本の MT 商会さんが電動車椅子を貸して下さって、使わせていただいていた。社長の MT さんは自分自身が身障者で車椅子生活ではあったが、自分で車を運転してこられてもう 1 人補助の方が作業を手伝うという風であった。作業をするときには、車椅子から床に降りて詳しく見ながら同行の方に指図するという熱心さであった。その後、電動車椅子を MT 商会さんに発注することになったが、後で述べるように電動車椅子に欠陥がありこの件は結果的にうまくいかなかった。 毎日食事時になると、電動車椅子で食堂に行っていつもの空いているスペースに移動式テーブルを置いて、それに所沢でやっていたようにバランサーを着けていただいて食事をしていた。所沢の国立リハセンと違ってここではバランサーなるものを見たことがない人がほとんどで動画や写真を撮ったり、実際にやってみたりして慣れるまでに大変であった。このバランサーは、所沢の OT の IT さんが軽井沢病院に来ても困らないようにあらかじめ発注してくださって、軽井沢町の福祉課で身体障害者手帳を使って購入していただいたものであった。バランサーは設定が難しく、正しく設定しないとまともにワークしないので IT さんに設定していただいたものを忠実に印をつけて固定して病院に持ち込んだ。 7 月末、病院のすぐ横の長倉神社の花火大会とお祭りがあって、窓から眺めていたのを覚えている。 7 時 15 分だったか定かでないが、まだ明るいうちから花火の打ち上げが始まって、窓から浅間山を背景にきれいな花火が上がるのが見えた。なぜ 7 時 15 分などという半端な時間から始まるのか不思議だったが、これにより今日のこの時間に素晴らしい眺めが見られるということになっているのだと納得した。写真を取るのには絶好のシャッターチャンスであった。 20 分もたたないうちに暗くなって浅間山はすっかり見えなくなった。花火は 8 時半ぐらいまで続いた。 9 月初めになってほぼ正確に家内の義母の容体が悪くなった。家内は東京を車で行き来して、その間私は退院を 2 週間延長していただいてショートステイの形で病院に滞在した。その頃には義母の別荘を冬も住めるようにするためと車椅子でも生活できるバリアフリーにするための自宅の改築もほぼ完成していて、後片付けが大変であったが家内は忙しい合間を見つけて退院の準備を続けてくれた。改築の内容は、まず義母の部屋だった四畳半の部屋を南側に約 1 メートル伸ばして車椅子が入れるようにすること、床暖房を整備して 1 階の部屋の壁に防寒材を入れることによって冬も住めるようにすること、更に IT 先生の忠告に従って寝室に使い良い流しを取り付けることであった。 9 月中頃改築した自宅に移った時には、軽井沢では既に秋の気配が感じられた。 退院して軽井沢の自宅に入った頃のこと退院後の生活の準備は、すでに所沢の国立リハセンにいた頃から始まっていた。そこでは、自宅に帰った後に必要な導尿の仕方とか浣腸の仕方、夜の排便の方法等をどうするのか等について色々と教わった。軽井沢病院でも、自宅に帰った後の準備としてケアマネジャーさんが選定され、訪問看護サービスの始まりやリハビリのチームを組んでその後のアフターケアを続ける準備がなされた。ケアマネージャーの MK さんは御代田町の出身であったが、軽井沢町の社会福祉協議会に勤めておられてデイサービスやショートステイの利用先として、軽井沢社会福祉協議会以外に御代田町や佐久市のサービスも考慮に入れて奔走してくださった。軽井沢の社会福祉協議会は「木洩れ陽 (こもれび) の里」と言ってデイサービスとショートステイが可能であったが、初めはデイサービスは週に 1 回しか空いていなかったので、 40 分以上かかる御代田町の社会福祉協議会にある「ハートピア」に週 2 回お世話になった。また訪問看護サービスと訪問看護に訪問リハビリは、小諸の訪問看護ステーションに依頼することになった。(現在は、軽井沢町と御代田町の境にある西軽井沢サービスステーションに移ったが、、、) 今はもう行っていないが、御代田町の「やまゆりの園」の OG さんや US さんにも通所リハビリで長い間お世話になった。また自宅でのヘルパーさんの依頼については、サービスの質が良いということで佐久市にあるニチイケアーセンターのヘルパーさんにお願いすることになった。(その後、小諸のサービスステーションに変更になった。) それに介護用品を調達して下さるサクラケアの担当者の方を加えて総勢 10 名余りの皆様が自宅に集まってくださり、第一回目の打ち合わせ会 (カンファレンスという) が行われた。ケアーマネジャーの MK さんや訪看さん (訪問看護) の YD さん、ニチイケアーの SM さん、それにサクラケアの HG さんには、この時から 6 年経った現在も担当して下さっている。 有難い限りである。(カンファレンスは約 3 ヶ月おきに開いて、リハビリの成果の確認と新しい目標を設定するということであった。(もっとも、最近はコロナウィルスの感染の影響で、密を避けるため何ヶ月も開かれていないが、、、) デイサービスは、一般には介護保険による老人の健康維持と入浴サービス、昼食介助が中心であるが、私には集団体操に参加するのは無理があるため、特別に体操の時間は自分で勝手に過ごすことを認めていただいた。実際、高齢者には入らない 65 歳未満の身障者の方はほとんどいなかった。私はその年 (2015) 年の10月、 65 歳になってやっと高齢者の仲間入りをした。御代田への送り迎えはかなり距離があるため、排尿の心配が常に付きまとっていた。尿意を感じると冷や汗が出て、血圧が下がっていくような感じがして (実際は上がるのだが) 気分が悪くなった。幸い軽井沢からはあまり利用者がいなかったために、移動車両の中に長い間止め置かれる事はあまりなかったが、それでも最大の注意を払って排尿の管理をしていくことが必要であった。15 分ほどで行き来できる「こもれびの里」にできるだけ早く振り替えて欲しいとの願いが叶って、1 年程経つまでには「こもれびの里」週 2 回、御代田週 1 回への変更が実現した。また、何回か自宅でのカンファレンスがあった後、軽井沢デイサービスの食堂を借りての会合が多くなった。 介護保険でのリハビリは週 2 回 20 分が最大で、要介護度 5 でポイント数が十分にあっても理学療法士の資源の限界から、これ以上のリハビリを受けるのは無理であるということであった。介護保険の問題点については、また後で詳しく述べるが、国の政策と法律による縛りや労働災害保障 (労災) との関係等の不理解から来る誤解もあってなかなか難しい面が多くある。しかしながら、 65 歳を超えた高齢者には介護保険優先という国の方針は、身体障害者のこれまでの権利を奪うことになりかねないということで、近年国会への請願等色々な動きがある。ともあれ、我々自身が知らずに損をすることの無い様種々の情報に注意すると同時に、医療従事者の皆様にも最大限の御努力をお願いしたい限りである。 これは後で知った話だが、リハビリには自費による訪問リハビリというのがあって、事業所がそのようなサービスを提供している限りお金さえ払えばいくらでもリハビリを受けられるようである。家内が昔、東京で行っていた大きな教会の信者さんでお医者さんがいらっしゃって、家内は何とかリハビリをもっと増やしてもらいたいという一心から色々と相談に乗って頂いた。もちろん、彼は介護保険の問題点やいろいろな法律をよく知っていて、お金さえあればもっと良い医療やリハビリを受けられることを教えてくださった。「要は世の中、地獄の沙汰も金次第ですよ、あはは…」と言ったとか言わなかったとか?京都で入院していた頃、脳梗塞で倒れた長島茂雄監督の奇跡的な回復がテレビの番組を賑わせて、その始球式の様子が映し出された。家内によると、長島茂雄監督は東京の初台の病院で個室料が 1 日 8 万円もする部屋にいて非常に良いリハビリが受けられたと言うが、今から思えば特別のリハビリに随分とお金をかけた結果であったであろう事は間違いがない。これもまた家内の友達で国会の代議士をやっていた女性がいて、家内が色々と相談に乗っていただいた時に、「労災の認定はされたか? 生命保険はかけているか?」と矢継ぎ早に聞かれ、YES だと与えると「英利子さん大丈夫、やっていける!」と言ったということである。我々は当時労災認定されるかどうかがそんなに致命的なこととは知らなかったのであるが、彼女によると「労災貴族」と呼ばれているということであった。実際、事故にあった 2 ヶ月後には早期退職することが決まっていたのに、休業補償という制度によって次に述べる固定日が来るまで働き続けていることになって、給料の 6-7 割程度が支給された。事故当日は祭日であったのに、たまたま私が自らが主催する国内ワークショップに関わっていたために、京大の秘書の YK さんが手続きをしてくださり、通勤時の事故として労災の認定を受けることができたのは全く不幸中の幸いであった。 ここで日常的にはあまり話題にならないことではあるが、お金の事は大変重要なのでその辺の事情を私の場合について記しておくのはあながち無駄ではあるまい。退職時の貯蓄は一千万程あったが 1 年を過ぎる入院と入院の個室代と家内の東京から毎週通う新幹線代でもってほとんど全て使い果たしてしまった。一般に私のように頸髄損傷とか不治の病とかを患った患者をもった家族には、その医療費すら大変な負担であって、例えば土地や山があってもそれらを全部売り払っても生活していくのが大変であるということを聞いた事がある。上述の休業給付は、都会に住む全く財産のない我々のようなものにとっては大変ありありがたかった。更に軽井沢の夏仕様の簡単な別荘を冬も住める様に、かつ車椅子でも入れる様に改築するには全部で千八百万近くのお金がかかった。大学で勤めていた時の生命保険は補償額二千万程度のもので時々の支払いが 4-5 万で大変であったが、退職間際にはそんな保証は必要ないということで五百万位になっていた。それでも、我々は知らなかったがそうした場合には普通掛けることになっている高度障害特約とか何とかがあって五百万の 3 倍の 千五百万を支給していただいたのは大変ありがたかった。この生命保険は 80 歳になるまで掛け金なしで続けられ、1 年半位ごとに 3 ヶ月の入院毎に五万円と入院費日額七千円頂けるということで、今でも大変助けられている。私は 38 歳になるまで海外にいたので、在職年数はかろうじて 25 年をオーバーするくらいで、退職金も二千万にも満たなかった。またさらに国民健康保険や文部省共済の老齢年金も満額には至らなかった。しかし現在は身障者と言うことで満額の障害基礎年金、約 25%増しの障害共済年金、調整額で減額はされるが労災年金、また税金の免除や色々な特典を受けさせて頂いているのは有難いことである。 次に訪問マッサージの事について説明しておきたい。私のように C4, C5 部所の脊髄損傷の患者は一般に首より下が麻痺していて、時々手足に痙性と呼ばれる痙攣が走る。麻痺には完全麻痺と不全麻痺があり私の場合には不全麻痺である。時々ハンマーで殴られたような痙性は、起こり始めると手足がピクピクと引きつり呼吸困難に陥る。痙性による手足のびくつきはこれまでのところ特に足についてひどく、京都の病院に入院していた頃は夜が更けて明け方になるまでそれが止まらなくて苦しんだことがある。外が白み始める明け方になってやっと疲れて寝てしまうという ことがよくあつた。PT のリハビリは半分以上がマッサージで体をほぐすのが主要な内容であった。それが慢性期になると週 2 回 20 分のリハビリだけになるいう事は非常に辛い話である。訪問マッサージを受けると疲労感からその後よく寝ていることが多いが、夜にもよく寝られるようになる。一般には訪問マッサージは保険の適用外となるが、それが毎日の生活に必要であるという主治医の診断書があれば保険診療の対象となるということであった。65 歳以上で介護保険優先になると医療保険の使用が俺されるのではないか、と言う意見をよく聞くが、実際には厚生労働大臣の認める疾病等別表7というのがあってその第19項目に「頸髄損傷」という項目がはっきりと記されていて、この場合は医療保険と介護保険の同時使用が認められている。また介護保険では二箇所の介護ステーションの併用や 1 日 2 回のサービスの使用は認められていないが、医療保険にはそのような制限はなく、また複数の介護ステーションを利用することも認められている。訪問看護については介護保険による場合と医療保険による場合と2つの場合があるようであるが、私がお世話になっている小諸の介護ステーションによる訪問看護と訪問看護に伴う訪問リハビリでは、週 2 回医療保険によるサービスを受けている。以下、参考のため「厚生労働大臣の認める特別疾病 (別表 7) 」をあげておく。 厚生労働大臣が定める疾病等 『別表7』 1.末期の悪性腫瘍 2.多発性硬化症 3.重症筋無力症 4.スモン 5.筋萎縮性側索硬化症 6.脊髄小脳変性症 7.ハンチントン病 8.進行性筋ジストロフィー症 9.パーキンソン病関連疾患 10.多系統萎縮症 11.プリオン病 12.亜急性硬化性全脳炎 13.ライソゾーム病 14.副腎白質ジストロフィー 15.脊髄性筋萎縮症 16.球脊髄性筋萎縮症 17.慢性炎症性脱髄性多発神経炎 18.後天性免疫不全症候群 19.頚髄損傷 20.人工呼吸器を使用している状態
実際には、訪問マッサージには全国マッサージ協会の取り決めで月 25 日以上のマッサージが本当に必要であるかどうかというチェックが入るようであるが、25日以上増えた場合には自費でサービスを受けるということでこれまで来ている。実際にはボルツヌス注射のために入院していたり、毎週一泊 2 日で軽井沢社協にショートステイに行っているのでひと月に 25 回以上になるのは稀である。(この件については、近年 (2021 年 5 月) また新しい動きがある様である。) もう一つは、要介護度 5 の場合の介護保険による訪問介護、生活援助、身体介護等 (いわゆるヘルパーさんの援助) についてである。通勤中の事故による労災補償にも介護給付と言う対応するものがあって、同じサービスが受けられる場合には労災のサービスを優先することになっている。しかしながら労災には限度額の制限があってそれを超えた部分については一定額の自己負担とともに介護保険の援助も受けられることになっている。我々はそうしたことを知らず、ケアマネージャーさんに言われるままに超過部分は自己負担していた。厚生労働省は個人による介護負担の実態をアンケートを取って調査し、援助額の増額の要求が高いことから平成 31 年 4 月を境に、上限額を 10 万円程度から 16 万円程度に引き上げた。これによって我々はその限度内に止まることができるようになった。念のためにその時の通知のリンクを貼っておく。 [参考2-2] 平成31年度 介護(補償)給付・介護料の最高限度額・最低保障額の改定について この中の<給付の内容>のところに、次のような一文がある。 (※)介護保険制度の対象となるサービスを利用する者については、労災保険の介護(補償)給付は介護保険給付に優先して給付される (介護保険法(平成9年法律第123号)第20条)。なお、労災保険の介護(補償)給付の最高限度額を超えてサービスを利用する場合は、 原則、最高限度額を超えたサービスに係る費用の9割分が介護保険給付により支給されるが、1割分については自己負担額としてサー ビス提供者に支払うこととなる。 法律の文言のためわかりにくい点も多いが、ケアマネジャーさんのおっしゃることを丸呑みにせず自ら調べることも重要であることを知って欲しい。 法律の文言と言えば、労災の固定日のことも我々には難解極まるものであった。我々は主治医が「これ以上は良くなりません」と宣言した日だとかつてに解釈していたが、それにはもっと深い意味があって、これを境に休業補償は打ち切りになり障害年金給付やアフターケアサービスに移行すると言う意味であった。10 月を過ぎたある日、京都の労働基準局から係員の方が軽井沢までわざわざ来られて労災固定日の認定が行われた。その時には、ケアマネージャーの MK さんも立ち会ってくださった。休業給付は打ち切りになり障害年金等に変わるが、調整額等の減額があってもこれまでよりも少なくはならないから安心するようにとのことであった。実際、その後のアフターケアサービスによって三ヶ月ごとの定期検診の費用や薬品代、また毎日の尿や排便管理のための器具は無料支給で、必要な電動車椅子も現物支給と手厚い援助が今日も続いている。先に述べた介護給付もアフターケアーサービスの一部である。いろんなサービスがあることを紹介するパンフレットをたくさん頂いたが、それらを全部読むのもなかなか大変であった。これもあとでウェブ等を見て知った事であるが、労災の規約を書いた文章は法律用語で素人には理解するのもなかなか難しく、多くの人は弁護士に依頼するということであるようである。その際手数料は約 20% と言うことで、それらを全部自分でこなした家内には頭が下がる思いがする。家内は学校の教師としていたが、必ずしもこのような書類の山をこなす特殊な能力があるわけではなく、この間の成長に甚だ感服した次第である。(ちなみに、外国にいた頃は Tax や保険の書類などは全て私がやっていた。) 彼女がいつも言うのは「こういうのは、自分から積極的に申請しなければ、誰も助けてくれないからね、、、」ということである。有難い限りである。 訪問リハビリの「やまゆりの園」への送り迎えとか御代田町にある歯医者への通院、3ヶ月検診や初め 2 泊 3 日程度でショートステイに行っていた軽井沢病院への送り迎え、NTTドコモでのショッピング等、どうしても本人が行かなければならない用事も多く、自宅に帰ったのち早急に介護車両が必要であった。リハビリはすでに 20 分単位となっていたが、できるだけリハビリの機会を増やすためショートステイはウィークデイに軽井沢病院に行っていた。送迎は、初めはいくばくかの安い費用で軽井沢社協の介護車両を借りていたが、自分の車でまず「木洩れ陽の里」へ介護車両を借りに行って、用事が済んだ後また返しに行って自分の車で帰ってくるという手間が大変であった。そこで何とか寒くなる前の 3ヶ月中に介護車両を選定して購入することになり、背の高い車椅子が乗る車両としていくつかの可能性を考慮していた。更に、軽井沢では冬は四輪駆動の車以外は使い物にならないと言うことで、選択の幅が大きく狭まった。牽引型の介護車両では軽自動車が普通であったので、最終的にホンダの N ボックスを購入することになった。車の価格自体は 150 万程度であったが介護車両への改良費用 70 万、プラス消費税が必要であったが、知り合いの伝手をたどって割と安い 220 万程度で購入することができた。住居の改築のすぐ後での多大の出費は大きな負担であったし、そのすぐ後に入れ歯の治療で多額の出費が予想されていたので躊躇したが、家内の負担を考えると仕方のない出費であった。 ティルト機能のついた電動車椅子の購入も、家内や介護者の負担を考えると急務の問題であった。幸い軽井沢病院でお世話になっていた MT 商会さんが適当な電動車椅子を探してくださり、労災のアフターケアで現物支給されることになった。私は病気のせいで、普通のご老人や病人が使っている垂直に立った車椅子に 15 分と座っていることができず、身障者手帳で東京都の杉並区から支給して頂いた手動式車椅子もティルトとリクライニング機能がついた特殊なものであった。ティルト (tilt) とは「傾ける」という意味で、ちょうどコマが傾くようにお尻を軸にして足と背中が直角に傾くと言う意味である。それは、足の位置が固定されていて背もたれだけが傾くと言う意味のリクライニング (reclining)という機能とはまた別の機能である。ショートステイやデイサービスで介護車両で送り迎えして頂いた折り、部屋に連れていかれてすぐ声をかけようとしても傾けないまま早急に次の仕事に取り掛かられる運転手さんに泣くことも多かった。この機能のついた電動車椅子なら、自分で傾けることもできる。しかしながら、問題はこのような多機能の電動車いすは一般に大きくて頭がつかえてしまい軽自動車の介護車両に乗らない。また重量が重くなって電動車椅子と本人の体重の和が 200 キログラムを超えると、車両制限を超えてしまうという問題点がある。大きさとしては、ヤマハの JXW と言う電動車椅子の機種があって割とコンパクトであったが、それにはティルトやリクラインの機能はついていなかった。 MT 商会さんによると、「ティルトかリクラインのどちらかの機能なら改造してつけられますよ」ということであったが、実はこれが後で大きな問題を生むことになった。2015-16 年の冬、労災の指定する佐久総合病院のリハビリ科の医師に必要な書類の診断書を書いていただいて、電動車椅子の改造が始まったが、その後何回も修正を繰り返して、実際に使えるようになった頃は既に 2016 年の秋口となっていた。このように長い時間がかかった理由は、MT 商会さんのある松本ではこのような工事を行うことができず、名古屋にある業者に発注するため、なかなかこちらの要望が正確に先方に伝わらなかったことにある。腕の可動範囲が普通の人とは違って大きく制限されているため、正確な寸法を測って発注すべきところが雑なため正しく出きてこないことがしばしばであった。ここから我々が学んだ事は、患者が直接業者と取引するのではなく、扱いに慣れた理学理学療法士 (PT) の方とかに発注してもらうべきであるということである。しかしながら、軽井沢のような小さい町では電動車椅子を必要としている人はそれほど多くはなく、PT の方も扱ったことのない人がほとんどで、これもまたなかなか困難なことである。また安全性の点からも、後で見る様にこの時の選択は正しいものではなかったと後悔している。 軽井沢病院から自宅に移った次の年の 2016 年の 5 月の大型連休の頃、長野県立総合リハビリテーションセンターの医師団の方が巡ってこられて、今患者を誘致しているということで、もし更にリハビリを続けたいということであれば、もう一度長野県立リハセンに入院してはどうかという話が持ち上がった。軽井沢役場の福祉課の TT さんという方のお世話になって、夏の 8 月の初旬の暑い頃病院の外来に診察に行くことになった。今から思えば職業訓練センターの方に行ったようで、病院の院長先生が診断してくださり「今、藤原さんに今必要なのは職業訓練よりもむしろ日常的な生活のためのリハビリで、病院の方に入院してそれをガンガンやるべきである」という風におっしゃってくださった。しかしながら、その日は不幸なことに病院内でも 35 度を超す猛暑で、トイレの悪臭が廊下まで充満しており、気分が悪くなりクーラーの効いている応接室でしばらく休ませて頂いてその日のうちに軽井沢に帰ってきた。今 (2021 年 6 月) 再びボルツヌス注射で痙性を弱めるための入院をすることになるとは、当時は全く思いもしていなかった。 三才山病院に入院中の頃2017 年 5 月の大型連休の頃、たまたま東京から帰ってきていた長男の誠は家内と近隣探索のため上田に行って帰り道を走っている途中、鹿教湯-三才山方面への道路標識を見つけた。もう 3 時を過ぎていたが、一度三才山病院はどんなところか見てみようということでそのまま三才山方面に向かった。鹿教湯病院は湯治治療で有名な温泉郷の中心にあった。そこからさらに上田方面に 5 分程坂を渡登った山下のところに三才山病院があった。その日は既に 5 時近くになっていたので、早急にどこか宿を探して鹿教湯に泊まった。翌日鹿教湯病院に行ってみると休日でもあるにもかかわらず病院が開いていて地域連携室の看護婦さんにお話を聞いてもらうことができた。後で知った話だが、鹿教湯-三才山病院には病院独自のカレンダーがあって、旗日である国民の祭日にも業務をやっているとのことであった。そこで「藤原さんの場合ならそれは三才山病院の方ですね。」と言われて、三才山病院の方にも行ってみると、そこではボルツヌス注射とハールを使ったボトックス治療というプログラムが用意されていて、その治療を受けたければ一度外来で診察してもらってくださいということであった。そこで早速その日は 1-2 週間後の外来の診察を予約して軽井沢に帰ってきた。ボルツヌス注射とはフグの毒素であるトリニドトキシンという毒素を少量注射することによって、痙性の原因である神経の収縮を弱め、または断ち切るための治療である。これに先立つ数ヶ月前、家内の親友で獣医をやっていた女性から、筑波大学の工学部の研究室で企業と共同研究のすえ開発されたハールと言う介護ロボットを使った歩行訓練があることを聞いていた。藤原さんにはどうかと言って進めてくださった。しかしながら、茨城県のつくばセンターにロボットの展示会場があるということであったが、そこでの 1-2 週間の訓練のためには 14-5 万円のお金がかかるということで、我々はそのために泊まるところも用意しなければならないしとても可能な事ではなかった。ところが三才山の病院に行ってみると、前述のようにハールによる訓練とボルツヌス注射を合わせたボトックス治療のプログラムが用意されていて、約 5 週間の入院が医療保険で可能だということであった。三才山病院でハールによる訓練が受けられるという情報は、團クリニックの HT 先生から窺っていたが、ボルツヌス注射のことは我々は全く知らなかった。 我々は 1-2 週間後に外来の診察に三才山病院に行った。軽井沢から車で約 1 時間半の行程であった。三才山病院の外来は整形外科だけで、医師の IZ 先生が PT の SK さんと一緒に対応してくださった。先生は足の動き具合を足首をぐるぐると回して調べてこれならばやってみる価値があるということで、ほぼ 1 ヶ月後の夏の入院がその場で決まった。この治療は 1 回で明確に効果が現れるのを確認できるわけではなく、数回注射してその時の様子で効果が現れればさらに治療を続けることができるということであった。結局のところ、2017 年夏から始めて 2019 年の夏まで、合計 7 回の入院が実現した。その間のリハビリの成果は順次話していく様にまったく目覚ましいものがある。 ボルツヌス注射とハールによる歩行訓練は、すべての人について可能というわけではなく、完全麻痺の患者や脳卒中の患者にはあまり効果がないということであった。私の場合は上肢下肢ともに不全麻痺である程度神経が残っており、またそれによって痙性も強くなかなかそれが収まることがなかった。筋力が全くなくなってしまった場合には、こうした治療は不可能であるということであった。 2017 年の夏、人里離れた三才山はまさに夏の山という感じで激しい日差しが照りつけていた。病院の屋上に上ると、そこは訓練にも用意されていたところだと思うが、山並みがすぐ近くに迫っていてそこから松本市のほうに向かう長い三才山トンネルにつながる大きな橋がよく見えた。屋上は広くて、緊急時のヘリコプターの離着陸も可能であるように考えてあるようであった。ボルツヌス注射自体はそれほど痛い注射ではなく、私にとっては鍼灸の針位の痛さであって、これも人によって非常に痛く感じる人もいるということである。注射の効果は、 2 日目位から 1-2 週間後にほぼピークに達するということである。注射後は筋力が衰え人によっては全く力が出なくなる人もいるということであった。注射の効果は 1-2 週間以降徐々に落ち始め 3 ヶ月後にはほぼその効果がなくなると言うことであった。最後の入院の 2 回位は、ボルツヌス注射ではなく神経性ブロックというフェノールを注射する治療であったが、これも似たような効果で、3-4 ヶ月後にはまた再生してしまうということであった。私の場合、最初の入院で大きな改善が見られた。当時訪問看護ステーションから来ていただいていた訪問リハの SK 先生が、体を前から支えてベッドから 3-4 歩歩く訓練をしてくださった。比較のためその時の動画のリンクを以下に貼っておく。 2 回目の入院はその年の秋であったが、 PT の SK さんが早速この歩行訓練を取り入れ、起立台の手前 7-8 メートルに置いた電動車椅子から立って十数歩歩いて起立台にたどり着く訓練が始まった。それまではベッドの横に立つこと自体が難しかったので、これは誠に大きな進歩であった。同時にハールを使った訓練では、電極を足に貼りつけて筋肉の信号をとられて歩行を助けてくれる機能が付いていて、正面のスクリーンに映し出される自分の体勢を見ながらまっすぐに歩く訓練を繰り返した。最初は訓練用のベッドの周りを 1-2 回歩くだけが関の山であったが、だんだん 3-4 回と回る回数が増えていった。
サドル付き safty walker を使っての歩行訓練(reha3) 2018 年の春、 3 回目の入院のときにはハールを装着して訓練用のベッドの周りを 3-4 回、かなりの距離を歩けるようになっていた。その効果がめざましかったので、このまま治療を続けることになって、結果的に 2019 年の夏まで 4 ヶ月ごとの入院が続いた。担当の IZ 先生も注射の効果が気にかかるのか、何遍も PT 室に来てハールを使った訓練の様子を見てくださった。担当の医師と PT さんの綿密な協力のもと治療を行う体制は非常に新鮮な思いがした。担当の PT の SK さんは、大阪の河内出身の非常に研究熱心な方で頸椎損傷の患者を 100 人近く見てきているベテランであった。ある日 SK さんに「ここの人は皆様熱心にリハビリに取り組んでいらっしやいますね。」というと、「ここは熱心にリハビリに取り組まない人は受け入れません。」ということであった。我々の成果が大きかったことで、 SK さんからこの成果の動画を学会で発表しても良いかということであったが、もちろんOKであった。4-5 回目の入院の頃から、サドルがついたセイフティーウォーカーという歩行訓練器具で歩く訓練が始まった。これを自宅での訓練に使うために介護保険でレンタルしたく思ったが、そのためには毎日の生活で必要欠くべからざるものである事を示す必要があるということで、毎日10歩、20歩と歩く訓練が始まった。この頃は、ハールが痙性の雑音をひろうということで足がガクガクと揺れて歩きにくさが目立った。そうなるとむしろセイフティーウォーカーでドンドン歩く方が良いということで、ハールの利用が高まって利用者間で取り合いであったということもあり、それ以降このセイフティーウォーカーでの歩行が主要な訓練となった。 PT 室から短い廊下を渡って体育館まで行き 1 周 50 メートルある体育館を 4 回、5 回と回る訓練が続いた。いつしか、前後の足の動きを 1 歩と数えて、最大 300 歩から 350 歩まで歩くところまで到達した。これは距離として全部で 300 メートル近くであった。入院中は、毎日 40 分の PT と OT の訓練がついていて、一応原則的には土日は休みであったが、注射を打ったの始めの週はできるだけ早いうちに手足を充分揉みほぐすことが必要だということで、特別に土曜日も訓練を受けることが可能であった。 OT の訓練は、指や手を動かす訓練で、それまでやってきた体幹を強める訓練と両腕の可動領域を広げる訓練が中心であった。 2019 年の夏からは、上肢へのボルツヌス注射も始まって、上肢のためのハールや病院が新しく購入してくれた帝人製の上肢用ロボット型運動訓練装置 ReoGo を使っての訓練が始まった。最初の入院の 2-3 週間後に食堂で食事をしていた時、作業療法士の OT さんに「ここではバランサーを使って食べている人は誰もいないのはどうしてですか ? 」と尋ねた。そうすると、「バランサーで食べられる人は、ここではバランサーなしで食べられるようになります」ということであった。半信半疑でバランサーをつけないで食べてみると、本当にバランサーなしで食べられることがわかった。以前軽井沢病院にいた頃は、バランサーなしでは 2-3 回スプーンを口に運ぶだけで疲れてしまって、ほとんど食べられなかったのに… バランサーを使わないで済むという事は、食事の準備の点でも大変な手間の省略であった。また食事時間のスピードアップにもつながった。この時以来、今日まで 1 度たりともバランサーを使った事は無い。バランサーの調整は一度設定が崩れると元に戻すのが大変なので、今では大変助かっている。結局バランサーを使っていた期間は所沢の国立リハセンに入院していた頃からほぼ 1 年半だけだった。 軽井沢から三才山病院に向かう道は約半分が浅間サンラインで、追分を越したところにある浅間サンライン入り口から東御へ向かう道は、私の大変お気に入りの道であった。左手には特に長野らしい山並みが見えて、それが小諸に行くにつれてだんだんと低くなっていく。小諸から先は再び山並みが高くなっていくのである。私が好きな演歌に永井みゆきの「信濃路の雨」という歌があるが、そのプラモーションビデオに出てくる通りである。東御で直角に南方向に曲がり、右手に田中駅を眺めながら展覧会通りを下っていくと丸子に達する。そこから、この間台風10号の被害で落ちた内村橋を渡って、内村街道を松本方面に向かって走っていく。この間、畑の広がった田舎道を通ってその後どんどんと緩やかな山路を辿っていくと、ついには鹿教湯温泉郷の入り口に辿り着く。鹿教湯病院は、そのほぼ真ん中にある。既に述べたように片道約 1 時間半の運転であるが、 1 日のうちに行き来するのは結構体が疲れるため、家内は週の 2-3 日程度は鹿教湯の国民宿舎や安い宿に泊まって軽井沢と三才山の間を行き来していた。入院して 2 週目以降は土日は全くリハビリがなかったため、時々病院を抜け出して私を近隣の安曇野の岩崎千尋美術館や国立アルプス公園に連れて行ってくれた。長い三才山トンネルを抜けて約 1 時間半ほどで行くことができた。またある年の春には長男の誠が見舞いに来てくれた時に、桜が美しい松本城の見学に出かけた。 三才山病院では色々な方々と知り合いになることができた。私より 10 歳程若い FR さんは近隣の町で農業を大々的に経営しておられた方で、軽トラックで農道を走っている時に事故に遭って、車と地面に挟まれて脊髄損傷を患われたそうであった。若い時は、単車で全国を巡るのが趣味で、短歌もよく作っておられた。私が行くたびに会ったので 2 年ほど入院しておられたが、その後長野市の県立総合リハビリテーションセンターに移って行かれた。長野市から来ていた KM 君や岡崎から来ていた SZ 君はやはり 3-4 ヶ月単位で再入院していたので、よく一緒になることがあった。若い人がリハビリに励んでいるのを見る事は、私にとっても大変大きな励みになった。また沖縄出身でブラジルで育ったという介護士さんの MS さんは、毎朝暖かいタオルで顔を拭いてくださり大変お世話になった。ここには 3 階に難病患者の病棟があって、御代田の「やまゆりの園」で知り合った男性の息子さんが入院しておられ、家内が代わりに彼を見舞いに行ったりしていた。また介護に来ていたお母さん達と家内はよく友達になった。鹿教湯には一軒だけ居酒屋があって、家内は鹿教湯で泊まる度に食事をお世話になった。この店のご主人は近くで自動車屋をやっておられて、我々の車や私の電動車椅子の電気系統の調子が悪くなった時にも助けてくださった。家内が何回も通ううちに親しくなって、我々の息子の自動車を購入する際にも色々と助けて頂いて、今日に至るまで大変お世話になっている。 2019 年頃から主治医の IZ 先生は三才山病院の院長となり、PT の SM さんは鹿教湯病院に配置換えとなった。新しく私の主治医となった HY 先生は信州大学医学部出身の脳神経内科医で、ボルツヌス注射の時に電極をつけて薬が筋肉の膜を通過するときの音を聞いて、的確な場所に注射する機器は彼が開発したということであった。 2019 年春の入院の時は、下肢と上肢のボルツヌス注射は半々であったが、その年の夏の入院の時は神経性ブロックの注射のみで全て上肢への注射であった。特に右腕については、それまで 10 cm 位いしか挙がらなかったのが 20 cm 以上挙がるというめざましい改善が見られた。しかしながら、HY 先生は上肢への注射は心臓に近いのでもうこれ以上打ちたくないと言われ、結果的に三才山病院へのこれ以上の入院の道は閉ざされる事となった。時を同じくして、 2019 年末から 2020 年の春にかけて新型コロナウィルスの蔓延が大きな社会問題となり、「また機能が低下したら再入院も考えましょう」という約束も言い出し得ないまま時間だけが無為に過ぎていった。 最後の入院の時に、レスパイト入院というものがあると聞いていたが、これは介護する人がしばらく休暇を取るために、病院が一時的に重症患者を受け入れてくれるという制度である。しかしながら、私たちは以前入院していた所沢の国立リハビリテーション病院にブラッシュアップ入院なるものがあるということで、その年の春に申し込んでいたことが実現して 2019 年の秋に 3 週間程度の入院が許された。このブラッシュアップ入院と言うのは、その後の機能回復とリハビリの成果の上に立ってもう一度日常の基本的な生活を見直すために、普通は許されない再入院をさせていただけるという制度である。春にはベッドに空きがなく秋になればという事であったが、 9 月初めに主治医の OK 先生から直接電話があってすぐ念願の入院が決まった。更に、長年飲んできた痺れと痙性を弱めるためのリリカとギャバロンという薬が適量かどうかを判断するために、1 週間程度様子を見てみようということになった。久しぶりに訪れた所沢の病院は懐かしかったが、既に入院患者が自由に使える Wi-Fi が整備されていた。以前お世話になった PT の IW 先生は、既に退職なさっていてお会いできなったのは残念であった。OT の IT 先生はご健在で、先生のおかげで自分でバランサーを使って食べられるようになったのが、今やバランサーを付けないで食べられる様になったという大きな進歩を大変喜んで下さった。当時作って頂いたパソコンの作業台は今も重宝していて、その時教えて頂いた Bluetooth によるタッチパッド入力も既に iPad による入力に置き換わっていた。今回は、自宅ウェブサーバーを linux machine で立ち上げるのに苦労しているところだったので、その為の援助をお願いした。残念ながらそれは叶わなかったが、その代わり小型のタッチパッド付き Bluetooth キーボードを教え頂いて帰って来た。今のところ、これを自由に使いこなす段階にまでは至っていない。薬の調整は、2-3 日量を減らしただけでその不十分な効果が的面に出て、現在の量を減らすことはできないことが明らかになった。 電動車椅子の事故について私が 71 歳になった 2019 年 10 月 4 日、使っていた電動車椅子にとんでもない事故が起きた。金曜日のその日、訪問リハビリが済んで御代田のやまゆり園から帰る時 N-Box に電動車椅子を引き上げると、どこかボキッとした音がして何か異変を感じた。それ以上は異常を感じなかったので、そのまま運転して帰宅した。自宅に着いて家内が電動車椅子を牽引綱を緩めてスロープを降ろそうとした時、もう一度ボキッと音がして車椅子が大きく傾いてしまった。家内は必死で車椅子が倒れるのを支えて、何とか地面にまで降ろしてくれた。なんと車椅子の座席とティルトの車軸を溶接してある部分が折れて、車椅子が 30 度以上傾いてしまったのである。これ以上言葉で説明しても分からないと思うので、以下に写真でその時の状態を示しておく。もう少し大きな力がかかっていると、家内もろとも倒れて怪我をする非常に危険な状態であった。家内は必死で傾いた車椅子を戻し、それを紐で縛って、なんとか私を一人で車椅子からベッドへ移してくれた。 溶接部分が折れた電動車椅子
早速写真を送って松本の MT 商会さんになんとかしてくれと訴えたが、今は行けない、代わりの電動車椅子も無い、ということであった。そうした状態が 1 週間以上も続いた。一応以前購入した手動の車椅子があったが、対応が遅いことはこれまでの経過で証明済みであったため、これを廃車にして新しい電動車椅子を購入した方がよいと思うようになった。実際、以前も述べた様に MT 商会には電動車椅子を改造する技術はなく、設計から始めて全て名古屋の工場に発注していたために、どの様に修理して良いか分からなかったのだと思う。規約によると、労災の電動車椅子の支給は今使っているものが 5 年たたないと新しく申請できないということであったが、今回は明らかに設計ミスだと思われるので、設計図が労災に提出されていることも鑑みて京都の労働基準局に以下のような手紙を書いた。 それと同時に、ティルト機能のついた新しい電動車椅子が一体あるのかどうか色々な方面に問い合わせを始めた。まず介護用品を扱っておられるサクラケアさんに近隣の電動車椅子を扱っておられる業者に問い合わせいただいたが、Honda N-box に乗るようなコンパクトな電動車椅子でティルトやディクライン機能のついたものはないということであった。また知人から教えていただいた群馬にある会社に依頼したが、こちらも熱心に探してくださったにもかかわらず適当なものが見つからず、暗礁に乗り上げた形であった。ところが、家内はあの手この手を尽くしてウェブの検索でそのような電動車椅子を探してきた。それは、東京浅草にある「さいとう工房」と言う電動車椅子専門の中小企業で、前後に小さい車輪の着いた 6 輪の電動車椅子であった。それが現在使って使わせていただいているレルミニシリーズである。家内は決してメカに強い方ではないが、若い人顔負けの検索能力を身に付けていることは驚きであった。さいとう工房さんの電動車椅子には、普通サイズのレルライトというシリーズと小型のレルミニシリーズとがあるが、寸法を測ってみると見事 N-Box に載るサイズであった。それでも本当に我が家の車両に乗るか心配だったので、雪が降る前にということで 11 月早速東京まで行って確かめることにした。Google map では東京までは上信越自動車道と関越自動車を乗り継いで、約 2 時間半の距離であるとのことであったが、東京の近辺ではどうしても車が混むために実際には 3 時間半かかった。所沢の国立リハセンを通り越して埼玉県の和光市から高速 5 号線に乗り、東北自動車道を通って首都高速に入った。家内は和光市のあたりですでに暗くなっていたにもかかわらず、複雑な高速の出口を 10 回以上間違えることなく慎重に運転して無事に東京に着くことができた。その母親譲りの運転技術に改めて感心した次第である。途中で高速のサービスエリアで身障者用のトイレを何回か利用して東京にたどり着いて、浅草の東横インに宿泊した。東横インにはハートフルルームという身障者向けの特別室が用意されていて、特に高い料金ではなくて非常に快適な 2 泊 3 日の旅ができた。ホテルの従業員の皆様も、身障者の取り扱いに非常に慣れておられるようであった。特に入り口の所には送迎用のマイクロバスの駐車場とあと車 1 台停められるスペースしかなかったが、そこを身障者用に優先的に使わせていただけたのは大変感謝であった。早速暗い中さいとう工房を訪れて試してみたところ、見事に N-Box に載る事が分かった。さいとう工房の社長さんは、元レーサーだったということで車の技術も確かで、中年になってから人々の役に立つ仕事をしたいという気持ちから今の事業を始められたということであった。従業員は少人数である様だったが、積極的にアジアからの研修生を雇って海外との交流にも熱心で、工房内にはあちこちの団体からの感謝状や表彰状が所狭しと飾られていた。レルカフェという集会を月一回工房で開いておられて、近隣地域からだけではなく日本全国から社長さんの人柄に惹かれて人が集まって来るというご様子であった。次の日、東京に何遍もくるのも大変であろうということで、次回来たときには確実に発注できるように細かい仕様やオプションを聞き取ってくださった。実際には、次回に来た 2 月末には既に出来上がったものを持って帰ることができるように取り計らってくださった。2日目の午後は、せっかく浅草に来たからということで、数百メートルで行ける近くの東京スカイツリーにお借りした電動車椅子に乗って家内と 2 人で出かけて行った。NHK の土曜日の朝、4 K 放送番組の「週刊丸わかり」で始めに出て来る東京スカイツリーである。また永井みゆきの演歌「希望の星」のプラモーションビデオに出て来るので、一度は行ってみたいと思っていた。身障者割引があって、 2 人で 3,100 円で VIP 扱いで誘導して下さり、一番上の回転遊歩道の展望台まで行くことが出来た。懐かしい思い出である。 次の課題は、現在の壊れた電動車椅子が修理不可能で、新しい電動車椅子が絶対に必要であることを労災に理解していただく事であった。実際に壊れた電動車椅子が修理不可能であるということを証明することは難しく、 NK 商会さんにその証明を書いてもらうことも事実上不可能であった。さらに新しいレルミニシリーズには今までの電動車椅子にない多くの優れた素晴らしい機能が付いており、これからの生活を考える上でどうしてもこの電動車椅子が欲しいと思った。新しい機能としては、 1 つはティルトとディクラインの双方が同時に電動でできること、更に座席の高さを 70 cm まで持ち上げることができるリフト機能と、足を乗せるフットレストを伸ばしたり畳んだりする機能がまた別の電気系統として整備されていることであった。これらを使うことによって、自分で全てを操作できることにより電動車椅子上での排尿の時の介助者の負担を大幅に減らすことができる。またリフト機能を使って、エレベーターのボタンが押せるようになったり、少し高い棚にあるものが自分で取れるようになるとかの利点がある。またこれらの機能を複雑に組み合わせることにより、新幹線や飛行機の中でも移乗することなく、ほぼベッドに近い状態で寝て旅行できるという素晴らしい生活が待っている。褥瘡予防にも最適であるし、体が疲れたとき自分で自由に傾けることができるのは最大 15 分以上垂直に座っていることができない私にはまるで魔法のような電動車椅子である。問題は、これをいかにして労災の審査員の方に分かっていただけるかということである。私たちはさいとう工房の社長さんにもお知恵をお借りして、これらを箇条書きにして労災の申請書に添付した。参考のため、この文章を以下に示しておく。また、家内の介護負担が今や限界に達していて、上の電動車椅子の新機能を使うことによっていかにそれが軽減されるかということを証明するために、かかりつけの團クリニックのお医者さんに診断書を書いていただいたり、また家内の通っているマッサージの先生に診断書と意見書を書いていただいたりして、これらを合わせて労災に提出した。担当の労災の NZ さんは何回も電話で事情を聴取してくださり、何とか審査委員会で認められるよう最大限の努力をして下さった。お蔭様で、2019 年の11 月末には新規購入許可がおり、 2020 年の正月明けには第一回目の委員会で取り上げて審査していただき、その後何回かの差し戻しの末 2 月初めには異例の早さで認可して頂くことができた。しかも、それは自己負担ほとんどなしの認可であった。さいとう工房の社長さんによると、私たちのように半年以内で労災の認可が下りるなどう事はほとんどありえないということであった。 私たちは既に 1 回目の上京で電動車椅子のオプションの選択ができていたので、早速その製造に取り掛かっていただくことができた。2 月の末、出来上がった電動車椅子を頂くために 2 回目の上京を果たした。今回は 1 回目の経験を生かして、交通渋滞を避けるために朝早く軽井沢を出て昼頃東京に着き、微細な調整が必要であることを勘案して以前と同じ東横インに 2 泊して、 3 日目の昼頃軽井沢に向けて出立する予定を立てた。実際、出来上がった電動車椅子を N-Box に乗せてみると、天井が低くて頭がつかえるという問題に遭遇した。後部座席を取り外すことによってこの問題を解決できるということで、次の日はその作業に 1 日を費やすことになった。その頃既に、横浜に停泊している豪華客船の乗客をめぐって新型コロナウィルスの感染は大きな社会問題となっていたので、 2 日目は近くの浅草雷門への観光は諦めて、ホテルから一歩も出ないで過ごすことにした。その日の夕方テレビを見ていると、衝撃のニュースが飛び込んできた。北海道で学校封鎖が行われたのに続いて、当時の安倍首相が日本全国の学校の休校を宣言するというのである。その数時間後、軽井沢社協から電話があって、私たちが東京に行ったことでデイサービスとショートステイの受け入れは暫く見合わせて欲しいということが告げられた。もしそれが出発前に告げられていたならば、私たちは上京を見合わせたであろうがその時は全く寝耳に水の話であった。軽井沢を出る前から予定は話してあったはずであるのに、旅行先で突然言われても、、、という感じだった。私たちは、その様な電話がかかってきたことに非常な驚きを覚えた。夜になって、ミュンヘンに滞在中の長男の誠から電話があって、3 月初めに予定していた帰国を変更した方が良いかどうか尋ねてきた。私はこの 1-2 週間で日本も入国が難しくなることを直感したので「今のうちに帰ってこなければ入国できなくなるよ。」と告げた。実際にその通りになった。誠は 2 月末に帰国して 3 ヶ月程度日本に滞在した。 電動車椅子の受け取りは全く危機一髪のタイミングであった。この時を逃していたら、いつ受け取りに行けたか分かったものではない。その後、電気系統のトラブル等多少の問題はあったが、今日に至るまで基本的に順調に利用させていただいているのは大変有難いことである。 泌尿器科の問題話しは多少前後するが、2019 年の春それまでお世話になっていた軽井沢病院の泌尿器科の SY 先生が御退職になった。SY 先生は、毎回短期的目標、中期的目標、長期的目標と順序立てて詳しく病状を患者に説明してくださる大変患者思いの良い先生であった。時々、地域の機関紙に記事を書いておられて、楽しみにしておられた読者も多かっただろうと思われる。結果的にその次の2020年の春まで軽井沢病院の泌尿器科の医師が不在の期間があって、その間私たちは知人に紹介された岩村田の ST 泌尿器科クリニックに行くことに決めた。このクリニックは院長先生以外に検査技師の女性を含めて 7-8 人で運営されていて、最新の検査器具を備えた良いクリニックのように思われた。実際、待合室はそれほど大きくなかったがいつも混んでいて多くの患者さんが出入りしておられた。私たちの治療は最初に入院した京都の徳洲会病院以来の詳しい検査を行って、まず膀胱圧の測定をしてこれまでの排尿管理の見直しから始まった。検査結果は以前とあまり変わらず、頸髄損傷患者に特徴的なシャープな高まりは相変わらず見られたが、危険が切迫している様には思えなかった。院長先生は、山形大学医学部で脊髄損傷のマウスの臨床実験で博士号を取ったということで、脊髄損傷患者の排尿管理にはある特定の意見を持っておられた。まず、私たちが京都の十条武田リハビリテーション病院以来必死に取り組んで来た自尿を出す努力を、膀胱に負担をかけるということで完全に否定された。もちろん軽井沢病院の SY 先生もこの努力を積極的に評価されていた訳ではなく、いずれ出なくなるであろうという御見解ではあったが、これほど強く反対される事はなかった。私が「リハビリで歩行訓練をしたり、マッサージで足を動かしてもらうと自尿が非常に出やすくなる」と言ったら、先生はそれはわからないと言われた。さらに水分の摂取についても、脊髄損傷患者は尿の量を減らすべく努力すべきで、1 日 1,500 cc 以上と言うのは多すぎるということであった。それまでデイサービス等でできるだけ多量の水分を取るように言われていたのに、これとは全く違う意見で我々は面食らった。先生によると、水分を十分に取らなければ血液がドロドロになって健康に良くないと言うのは大嘘で、最新の研究でもそれが証明されているということであった。また薬の面でも、尿を出やすくするためのユリーフ錠は良くないと言うことで毎回導尿により排尿して出来る限り膀胱の負担を減らすべきであるというご意見であった。勧められるまま、抗コリン剤を飲むと的面に自尿が出なくなった。ウェブからの情報では、抗コリン剤は頻尿患者の治療にも使われるということであったが、私の場合はむしろ逆に頻尿が始まってなかなか尿が出ず、一日の導尿の回数が10回以上にもなって苦しい毎日が続いた。その後も次から次へと抗コリン剤の種類を変えたが、いずれも似たような状況であった。夜間の排尿管理についても、国立リハセン以来ずっと使っていた、コンビーンというストーマータイプの排尿器は否定され、夜間だけ挿入する間欠バルーンを勧められた。これらの尿管理に必要な機器は軽井沢病院ではコンビーン以外は全て労災のアフターケアで支給されたが、このクリニックでは労災の扱いはやっていないということで健康保険の 2-3 割自己負担がやっとで、清浄綿もコンビニで買わねばならず、この頃の泌尿器科関係の出費は1月に一万円を超えることも多々あった。 軽井沢から岩村田への距離は車で約 40 分で、毎月私を連れて行くのも大変でしょうということで、家内が一ヶ月に 1 回ひとりで必要な器具をもらいに行った。ある日家内が 1 人でクリニックに行って近状を説明すると、「まだ自尿を出す努力をしているですか !」と叱られて震え上がった。家内は私と ST 医師の間に挟まれて随分と苦しんだ様である。私にしてみれば、生身の人間をマウスと同じにしてくれるなと叫びたいような気持ちであった。このような状況を3ヶ月検診の折、軽井沢病院の主治医の MK 先生に漏らすと、今は非常勤の医師が週に数回来るだけだが、藤原さんは以前から来ていたので軽井沢病院に戻ってきても見ますよと言って下さった。9 月のある日、私は家内とクリニックに出かけて行って通院を辞めたい旨を伝えた。ST 先生は「通院を辞めるのはいいが、多くの人がまた結局戻って来ますよ」と言われた。それ以来、私はこのクリニックの門をくぐった事はないし、これからもくぐるつもりもない。 新しく軽井沢病院に来られた OK 先生は初老の穏やかな先生で、「藤原さんが半分自尿で、あと半分は導尿で行きたいというのならそれでもいいですよ」とおっしゃってくださった。軽井沢病院では夜間バルーンは扱っていないということで、はじめは私のためだけにそれを取り寄せる事はできないとのことであったが、これからコンスタントに使用してくれるなら病院として最大限の努力はすると言ってくださった。それが実現して、お蔭様で 1本一万円程度もする夜間バルーンカテーテルも労災のアフターケアーで現物支給していただいて、月々の支払いも全く必要無くなった。有難い話である。 長野県立総合リハビリテーションセンターに入院中の頃2020年春三才山病院への入院が事実上完成に閉ざされた頃、ほぼ同時にコロナウィルスの感染が大きな社会問題となっていた。私たちはリハビリの更なる進展を目指すため、これまでお世話になって来た團クリニックの HT 先生に再び相談した。先生は「自分の母校の慈恵医大がボトックス治療に力を入れているので紹介状を書きましょうか?」と言ってくださった。先生は、紹介状をお願いするとその場ですぐ書いてくださるという類稀な才能を持った方で、このような芸当は本人の中にいろいろな情報がきちっと整理して入っていなければ決して出来るものではない。このことは、多少なりとも自分で文章を書いてみたことがある人ならばすぐ分かると思う。家内がその紹介状をもとに、東京の慈恵医大に電話をかけると、まずかかりつけの主治医の方から外来の予約を取ってくださいということであった。しかしながら、当時は他府県との行き来、特に東京との行き来は受け入れ施設が大変神経を尖らせている時だったので、このようなお願いを HT 先生にする事はとても出来なかった。一旦東京に行ってしまうと、帰ってから2週間の間はデイサービスやショートステイができないというのがルールであった。このような状態が半年以上続いた後、親友の TB 君が車の事故に遭遇し自分で乗り降りできないという問題がおきて、2021 年正月早々長野市の県立総合リハビリテーションセンターにリハビリのため入院することとなった。退院して来て御代田社協でお会いした時「県立リハセンでも、ボトックス治療はやっているみたいだから、藤原さんも相談してみたらいいよ」と言ってくださった。私はボトックス治療はてっきりリハビリと組で行うものだと思っていたので、最初は半信半疑であったが、痙性を弱めるための治療だと言うことで納得して家内に県立リハセンの地域連携センターに電話して貰った。そこから先は、話はとんとん拍子に進み早速 HT 先生に紹介状を書いて頂いてそれを持って県立リハセンの外来を受診することとなった。当時はそれまでの 16 日間というもの、長野市から一人の感染者も出ていなかつたので、すぐ約 1 ヵ月後の 3 月末の入院が決まった。ところが運悪く外来受診に行ったその日に長野市内で 5 名の感染者が出て、それ以降 5-6 名を下る事はなかった。入院予定日の 2 週間前の 3 月 10 日頃、県立総合リハセンの地域連携室の室長さんから電話があって、県の指導で 2 階病棟を全てコロナ病棟にすることになったので今回の入院はすぐには受け入れることはできないと告げられた。2 階病棟の普通の患者さんは 1 階病棟に移され、そこがいっぱいなので 1 階病棟の患者さんの退院の予定されている 4 月末までは将来の見通しが立たないということであった。 結果的に実際に入院できたのは 6 月初めからの 3 週間であった。それまでに入院の準備のために、自宅での生活状況を知らせて欲しいということで、我々は日常の訓練や食事の仕方等動画に撮って Dropbox にアップロードし、それをインターネット共有することによって見て頂くようにした。せっかくなのでその時のリンクを以下に貼っておく。 こうした準備が功を奏して、入院した折は大変快適な毎日を送ることができた。ボトックス注射は、これまでの経過や PT, OT の先生の診断を見てからということで、入院後 3 日目に行った。近年は、本質的にはボルツヌス菌だがより副作用の少ない新しい薬が色々と開発されているということで、今回は Zeomin (ゼオミンあるいはゼオマイン) という注射液を使うという事であった。 コロナ感染対策で、病院は一切外部からの見舞客を断っていて、家族も玄関の受付の前の部屋で 15 分以内で面会を済ませてくれということであった。結局 3 週間の間、私は病院内から 1 歩も出ることなく過ごした。特に最初の 1 週間は部屋から出ることも許されず、リハビリも部屋の中で PT, OT の先生方が完全武装しての訓練であった。2 週間目になると、部屋のドアも開放になって病院内は自由に移動できたが、2 階病棟は当然侵入禁止であった。2 週間目からは私は自分の電動車椅子で一人で 1 階の PT 訓練室や、3 階の OT 訓練室に出かけていった。新しい電動車椅子を使って、病院内のエレベーターのボタンは容易に押せることが分かった。これは大きな進歩であった。 既に述べたように、入院中の 3 週間は家内が 1 度も病院を訪れることもなかったのに大変快適な滞在であった。最大の理由は、多分看護婦さんや PT、OT の先生方が頸椎損傷の患者に慣れておられたことだと思う。そこで、食事はセットアップさえ適切にやって頂ければほとんど最後まで自分で食べられることや、手の装具の付け方、自尿の際の導尿の必要性とか夜の間欠バルーンの取り扱いとか、こちらから特に説明しなくても全く問題なくやって頂けた。病院には介護士さんはほとんど皆無で、すべての業務を看護師さんがやっておられた。1 階病棟には共通の食堂はなく、入院患者は全て自分の部屋で食事をとることになっていて、看護師さんが各部屋を次々に回って食事の世話をしておられた。コロナウィルス感染のせいか、病室は全て埋まっているという風でもなく、1 階のナースステーションで 20 人以上でローテーションを組んでおられる看護体制はさすが県立病院という感じがした。PT 室や OT 室も結構広くさすがリハセンという感じがした。この様な快適な環境の中で私が感じた事は、この世のなか、まっとうに話しをすれば意外と通じるものだということであった。事故に遭ってからこの方、全てを人に頼らなければ生きて行けないという負い目が常にあって、自分のことを主張することに絶えず躊躇を感じていた。勿論介護してくださる方に感謝するのは当然であるが、筋道建てて話し合えば人は意外と理解し合えるものだという、いわば当たり前の事に改めて気付かされた。世の中では種々の主義、主張がぶつかり合い、喧嘩もすればお互いに傷付け合いもしながら皆が一生懸命に生きている。しかしそこには常に、今日よりもより良い明日を生きたいという真っ当な人間の強い思いがある。健常者であるか障害者であるかに関わらず、お互いに切磋琢磨してより良い社会を作るべく日々努力していきたいものである。
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